三者三様ー〈私〉とは何か《iquotlog:天才的一般人の些細な日常》
昨晩寝る前に、ナショナル・ジオグラフィックの『アースムード』という映像作品を見ながら退屈した娘が、
「たましいってなに」ときいたので、
「むずかしいね」と答えつつ、
「かさねちゃんが、かさねちゃんだということだよ」と続けた。
「ふうん」
反応が薄いので畳みかける。
「かさねちゃんは、どうして自分がここにいるのかなって思ったことないの? パパはあるねん」
「うーん」
「自分はなんで自分で、他の人じゃないのかって、思ったことない?」
黙っている。
「自分はどうして、自分の視点からしか見られないとか、えっと難しいな、自分のことはどうして鏡じゃないと見られないかって思ったことはない?」
すると娘が答えるには、
「顔は見えないけど、手と足は見えるよ。あと前髪は見えないけど、ここ(長い横の髪を触って)は見えるよ」
ごもっともだ。すごく現実主義的というか、健康というか。自分は小さいときしきりに自分はどうして自分以外ではないのかを考えたものだし、他の人の視点からすると自分はどう見えるのかとか、どうしてもそこに立てない場所について疑問を持ち続けたものだけれど。
すると妻が、
「お母さんはな、かさねちゃんみたいに小さい頃から幽体離脱してたで」
と言う。えっ。
「おばあちゃんの家のボットン便所に座りながらな、からだから離れて、みんなが座ってる場所を上から眺めて、自分はなんで自分で、ここにいる誰かではないんだろう、って思っててん」
自分の魂は肉体に留まったまま、他者と自分を考えた。妻の魂はからだから離れ浮遊して、ぼくと似たようなことを考えた。娘は自分の髪は見えると言う。自分は自分、他者は他者ということに疑問を抱いていない、のかもしれない。
そのとき3歳の息子は既にぼくらの真ん中で就寝していた。
猫が息子の足元で丸くなって眠っていた。
自己についての意識が三者三様でうちの家族は面白い。
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