文章を、思い出した。
文章が大好きだった。
小学生の頃、毎日図書室で上限の3冊を借りてその日のうちに読み終えた。
毎週末は父に連れられて図書館でも本を借りた。
本を一度読み始めてしまうと没頭してしまい、話しかけられても気づかなかったり、読み終わるまで食べることや眠ることも出来ないような子供だった。
私は文学が好きだったから沢山の場所を主人公の背中を見ながら冒険してきた。
お城に住んだり、とてもとても高い山の上で暮らしたり、一見現実と見た目が似た暮らしをしていた時もあった。
魔法が使えて、超能力があって、不思議なアイテムがあって、沢山のユニークで愉快な登場人物が居た。
地球の裏にも、別の星にも、違う世界にも行った。
私にはたくさんの思い出が本の中にあった。
友達と手紙を交換した。
文末に毎回まるの代わりに何の絵文字を書くか迷っていた。
拙かったけれど、相手について考えて、相手にも想ってもらった。
ただ、しばらく私は文字を読めなくなった。
原因は抑うつ状態による脳の処理能力の低下。
中学に入ってから借りた本は3年間でたった2冊だった。
どちらも読み切ること叶わず返却したと記憶している。
そして高校になったらもはや学校に行くことが無くなってしまった。
引きこもりの不登校から転校、留年、また留年。
綺麗にストレートドロップアウトを決めた。
息をしたくない気持ちを押し殺して息を続ける中の生活は地獄だった。
夜の7時ごろに目を覚まし、全員が寝静まる11時くらいまでひたすら泣いて、泣いて、泣き疲れたらウマ娘をする。
家族が寝たらトイレに行き、またベットの上で泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、ウマ娘をして、YouTubeで「生きでるだけで超えら〜い!」と歌ってくれるMVをループして無表情のまま横になる。
そのまま朝になって自然に眠る。
食事は数日に一度深夜に過食をして摂っていた。
文章の事など忘れていた。
文字を書くことなど何ヶ月も無かった。
文字に触れたのはTwitterだけだった。
ただ淡々とTwitterで鬱あるあるの投稿と、男女論争と、少子化問題と、トー横の炎上や水商売のリアルを無意味に見つめるだけだった。
何度も本を読もうとしてみたけれど、5文字読むと前の5文字を忘れてしまって、たった一文を読むのに何分もかかった。
やっと一文読めても意味が分からなくてそれを理解するのにさらに時間がかかった。
死にたくなった。
大切なものが全部視野の外へ行ってしまって、
悲しい事や苦しい事、救いのない現実だけが狭い視野に詰め込まれた。
長らくこんな時間が流れた。
今や少し病状は回復したものの、本や文章は読めなかった。
そんな中、小学生の頃大好きだった児童文学の原画展があると知った。
展覧会は見るだけであまり考えなくて済むし、綺麗なものを見つめていると心が落ち着くから好きだった。行ってみた。
あの頃の記憶が蘇って、また読みたくなった。
読んでみた。
児童文学のため文字が大きくて挿絵も多く理解がしやすく、するっと読み切ることができた。
本を閉じると、あの頃の感覚がまた味わえた。
もう亡くなってしまった人のYouTubeをもう一度見た。
その方は躁鬱を患っていた。
動画の中のその人はまるでまだ存在しているかのように温かさのある文章を字幕に付けていた。
涙ぐみふとコメント欄を見ると意外にも最近のコメントが沢山あった。
投稿主に向けた自分の現状報告のコメント
この動画に帰ってきたよというコメント
その中に
投稿主を労うとともに、今を生きる人を励ますコメントがあった。
そのコメントはあまりにも優しかった。
そのコメントは一度ですぐに色々な経験と感情を知った人の文字列だと分かった。
私は本当に久しぶりに文章に触れた気がした。
吐き出しや、メモや、口論ではなく
紡がれ、引き出しを沢山開け取っておきの言葉で作られた、文章を読んだ気がした。
あの時の文章を読み終わった後の
あの頃の本を閉じた瞬間の時の
心に暖かい液体をゆっくりと、しかし並々と流し込まれていくような
満足感
安心感
達成感
それらを感じた。
そしてさらにこの気持ちを自分で文章にこうして記すこと。
文章を、思い出した。
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