私と古典
私はかつて小説が大好きな文学少女だった。でも文学少女と言うには抵抗があった。なぜなら私は古典文学にろくに触れていなかったからだ。
古典文学が偉くて小説が低レベルなど単純に思っていたわけでもない。現代人に向けて書いた現代小説の方がおもしろいと思うのは当たり前だし、「おもしろいと思えるようになってから読むのが一番いい」とも考えていたので、今、児童向け文庫やケータイ小説や現代小説がおもしろいのなら、今それを楽しめばいいじゃないと思っていた。
と色々言葉を並べても、読んでおもしろさがわからないのはとにかく切なかった。
大学に入って文学部のバリバリの文学少女と話すと、彼女らがあまりに古典文学のおもしろさを見出す教養に溢れていたので眩しかった。つくづく彼女らと肩を並べる進路を選ばなかったことに安堵した。絶対追いつけないからね。
さて、大学で出会った現旦那は、古典文学に明るいわけではなかったが古典文学への強い憧れがある人だった。そのこだわりが彼自身を苦しめているところもあったが、それはそれとして、「好きな作品の作者が誰に影響を受けたか気になるじゃん」と旦那は言った。目からウロコだった。
好きな人の昔好きだった人の話が大好きという性癖を持つほどに人と人との関係性に飢えた私にとって、作品でそうした思考回路ができるとは、と!
マンガなら行き着く先は手塚治虫なとこあるし、映画なら黒澤明といった感じで、そこまでいくと現代人的な物の見え方しかない私には若干退屈なのだけど、藤本タツキが影響を受けたと言うので沙村広明も買ってみたし(これはおもしろかった)、少し古典を楽しむ精神が芽生えたのでは?などとうぬぼれてもいる。
古典を楽しめないからと言って教養が足りないとか読解力が劣っているなどと落ち込む必要はない、が、楽しめるものは多ければ多いほど良いというのが私の持論である。