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「この時代になぜ本を出すのか?」の答えがようやくわかった

さとゆみさんの新刊「本を出したい」のトークイベントに行ってきました。

春の嵐に傘をふっとばされかけ、3回ぐらいめげたけど(やっぱ行くのやめようかな。。。)、結果、行ってよかった。楽しかっただけでなく長年の疑問が晴れた。

始まりは昨日の朝。

心の師であり、友人であり、尊敬してる同業者であるさとゆみさんの新刊「本を出したい」を読み始め、昼間にメッセンジャーで途中までの感想をさとゆみさんに送り、Xを見たら急きょ夜のイベントに席が空いたことを知り、チケットを購入し、最後まできっちりと読み終えてから、青山ブックセンターに向かいました(久しぶりにこの本屋さんを訪れたいと思ったのも後押し要因)。

※ちなみに、前回さとゆみさんのトークイベントに行ったときのレポートはこちら。

↓書籍はこちら↓

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なぜ本なのか?

こんな時代に、なぜ本なんていうものを書いてるのか?

それについては、長らく考えてきました。

本を出すようになって15年ほど経ちます。今では本を書くこと(その収入)で主に食べてます。

大変大変ありがたいことですし、小さいときの夢が叶ったので幸運なことです。

とはいえ。

とはいえ、ですよ。

いまどき、本って!!!! この時代に本って!!!!

出版不況、本は売れない、書店はつぶれ、版元もなくなり。

身のまわりで本なんて読む人いない、みんなSNS、みんな動画、みんなスマホ……。

なのに本って!!!! どうなのそれ? だいじょうぶ???

自分で自分につっこまずにはいられないぐらい、本を取り巻く環境は厳しいものがあります。

それでもなんとなく、本がいい。本を書いている自分がうれしい。「職業は、本を書いてます」と言えるのが「えへへ」と誇らしい。

なんでなんだろうと考えると、結局「好きだから」にたどり着く。

小さいときから慣れ親しみ、憧れてきた本。もちろん人並みにテレビやラジオ、SNSやマンガに浮気はしてきましたが、それでも結局、本が好きで、好きなものに関われてうれしい。好きだから。理由なんてそんなもんでいいんじゃないか。そう思ってました。

あと、時代のせいもあるのかな、とも。

僕が小さいときは家庭の方針もあり、本しか娯楽がありませんでした。本ばっかり読んでたし、本さえ読んでおけば大人もほめてくれた。今に比べて、本ってまあまあ偉かったように思います。だからなんというか「刷り込み」的に本なんだ、と。時代のせいだ、と。

つまり、もしこれが、小さいときにyoutubeに夢中になってたらyoutubeをやりたいだろうし、テレビっ子だったらテレビを作りたいだろうし、そうやって、結局、小さいときに慣れ親しみ、憧れ、身近なものに近づこうとするのは当たり前で、当然のことなんだ、と。三つ子の魂百まで、と。

長じてからはインスタをやってみたり、WEBの連載を持ってみたり、youtubeチャンネルだって開設してみた。それこそ、テレビにたくさん出まくろうと思ったこともあります。それでも、結局、本だけがありがたいことに僕を受け入れてくれた。

これはもう、巡り合わせというか、運というか、生まれ育ちというか、そういうものなんだろう、と思っていたのが、一昨日までです。

逆に言うと「なぜ本なのか」について、うまく言語化できてなかった。だって好きだから。だって時代だから、世代だから。他がうまくいかなかったから。どれも、なんかこう後ろ向きというか、あいまいというか、ぴしっときてなかったわけです。

そのせいか「これからもっともっと本が売れなくなったらどうしよう」とか、不安にならなくもなかった。

ところが。

その長年の疑問の答えが、昨日のトークイベントに参加してわかったような気がしたんです。

なぜ本なのか? 本は他のメディアと何が違うのか?

結論から言うと「本はじっくりといろんなことを考えるのに向いているメディアだから」です。

書籍『本を出したい』の中では「長考」と表現され、トークイベントの中では「のんびりと考える」と表現されてました。

考える、話す、聞く、書くは、互いに行ったり来たりする行為で、不可分の関係にあると、常々思ってますが、なるほど、そこに読むが入ってもいいぐらいに、本を読むと、頭がすごく動きます。

本ぐらいまとまった量の文章に触れると、否応なしに、人の頭はぐるぐると動きます。

同じ事を何度も言われて納得したり、書かれてないことを想像したり、ふと立ち止まって昔の記憶をさかのぼったり。

そうやって、じっくりと、のんびりと、孤独に、自分のペースで、考える。

それが目的とは言わないまでも、その行為に適したメディアが、テレビでもSNSでも動画でもなく、本なのだ、と。だから、好きなのだ、と。

現代の大人たちは、自分は忙しいから本なんて読まないけれど、自分の子どもには本を読んで欲しい、といいます。その理由も「なんとなく知的そうだから」「賢そうなイメージだから」「動画ばっかり見てるバカみたいだから」はあるでしょうけれど、どこかで「じっくりと考える人間になってほしい」「そういうクセをつけて欲しい」と思うからではないでしょうか。

話を自分のことに戻すと、本を読むのが好きで、本を読んで「ふぅむ」と考えるのが好きで、その感覚は、なかなかWEB記事や動画では得られなくて、それは小さいころから好きな感覚で(ご多分に漏れず、考えすぎのひねくれたおとなに仕上がったわけですが)、そのおかげで得られたものもたくさんある(というか、そっちの方が多い)。

トークショーに一緒に登壇されていた編集者さんも、昔からなにしろひとりで考えるのが好きで、「たいていのことはもう考え尽くしてある」と豪語されていました。かっこいい。

で、そういう「じっくり考える」という行為を誘発するから本が好きで、それを書けているのがうれしいのだと。

もっというと、読むのもそうですが、実際本を書くとなると、それはもう、考えるわけです。

あれこれ考え、資料を読み、打ち合わせを重ね、人と話し、書き、考え、また書き、を繰り返すと、なんかもう、頭が強くなった(しなやかになった)気がします。頭使ったーーーって気になります。

そうやって考えること、考えることを文章にすること、その過程でまた考えること、その結果としての文章を読者に届けて、読者にもまた「ふぅむ」と考えてもらうこと。

そういう、考える・書く・読むループの中に身を置けることが(で、それで食べていけることが)すごくうれしいんだなと。

そう思い至ったわけです。

今の時代に本(なんてもの)を(わざわざ)出す意味は、まさにそこにある。

本はじっくりと考えるメディアで、本を読んだり書いたりして、とにかく考えまくるのが好きなんだ、だからそれを職業に出来ていてうれしいんだ、と、再確認できた次第です。

「好きだから」「時代(世代)だから」でも十分だったかもしれないけれど、これからは「そうだよな、むっちゃ考える(読むのも書くのも)からな、だから好きなんだな」と、もうひとつ強い柱が自分の中に建立されたイメージです。

書籍自体は、笑いどころあり、関心どころあり、勉強どころあり、泣きどころあり(実用書でほろりとさせられるとは思いませんでした……)で、すごくいい本です。ぜひ。

※そして「書くことを中心にしつつ、みんなで話したり、読んだり、考えたりしよう」という物書きコミュニティ「おとなの寺子屋」は、やっぱりいい活動だな、と再確認(自画自賛)できました。興味ある方はこちらから!


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