「長いお別れ」~悲しみの乗り越えかた~#1.5
私は、お父さんのこと、「可哀そう」だと思ってた。
「可哀そう」なお父さんが、認知症になって、家族のこと、自分のことをどんどん忘れて行って、今までできていたことができなくなって、さらに「可哀そう」な人になったんだって思ってた。
早くに母を亡くして、お父さん一人で私のこと育ててくれたのに、私が家を出たから、一人でコンビニのパン食べて、数年お風呂にも入らなくて、ゴミをため込んで、ガスも水道も通っていないごみ屋敷の中で孤独で生きているのに、私は一人で関西にきて、きれいな部屋で、大好きな犬と生活して、好きな時に好きな人とご飯を食べて、、、
お父さんが、可哀そうな人なのに、自分だけ幸せになっちゃいけないんじゃないか!?自分だけ好きなことやってちゃダメなんじゃないか!?って罪悪感に浸って、涙まで流して苦しんでた。
でも、それって完全に間違ってた!!!
勝手にお父さんのこと可哀そうって決めつけて、自分のこと悲劇のヒロインに仕立て上げて悲しむことで、現実から逃げようとしていただけだった。
今のお父さんは、施設でのご飯が毎日楽しみで、週に3回はお風呂に入って、暖かくて清潔なところで眠れてる。まだ自分のことを「先生」だと思っているから、ほかの入居者に「おう!がんばれよ!」って声をかけて歩いてる。
認知症になって、今までこだわっていた「プライド」とか「偏見」や「価値観」、そういう人間特有のアクが全て剥ぎ取られて、純粋なままの姿で生きている。
だからこそ、今だからこそ、話せることや、聞きたいことがたくさんある。
きっと、いつか、認知症が進んで、言葉も通じなくなって、ご飯も食べられなくなって、お別れをしなければならない時がくると思う。
そのときに、私自身が後悔しないために、残された父との時間を大切にしようと思えた。ちゃんと向き合いたいと思えた。
映画「長いお別れ」でも、学校の校長先生を務めた父が認知症になって、最初、家族はすごく戸惑うんだけど、だんだんその現実を受け入れて、今までとは違う、また新たな家族の関係性が出来上がっていく。
「おじいちゃんはいろんなことを忘れてしまったけど、そんなに悲しそうに見えない」って、小学生の孫が恋人にメールを送るシーンがあるんだけど、それすっごくわかる( ;∀;) 本人はきっと、悲しくない。その人の周りがギャップを受け入れられなくて、悲しんでいるだけ。
今までの記憶をなくして、夫でも父でもなくなっていく、それでも断片的に残る記憶を頼りに、家族への愛にあふれる行動を起こしたりする。
忘れられること自体は、きっとすごく悲しいこと。自分の存在が消えちゃうんじゃないかって不安になったりする。その悲しみを乗り越えるには、父と向き合い続けるしかないと思う。父にはもう記憶は残らないけど、向き合い続けて、自分が納得するまで、父との新しい関係を築き上げるしか、きっと乗り越えられないと今は思う。
それは、「かわいそうなお父さんのため」じゃなくて、「自分自身のため」にすることだと思う。
いつか、何年後か、何十年後かわからないけど、その時に今を振り返って、お父さんに忘れらた「悲しみ」じゃなくて、新しく築いた関係を「誇り」に思えるように、できることを精一杯頑張りたい。
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