ただ結び付けられれば: Only Connect —院生編
以下の記事で、院は諦めようと思うと書いたのですが、紆余曲折あって、院に進学したので、後日譚(院生編)を綴ろうと思います。まずは、その経緯と院での話を順に書いていきます。
院に入った経緯
上に張り付けた記事にあるように、わたしは一度院に行かないと決めたにも関わらず、進路を変更し進学した。なぜか。学部の勉強が楽しかったのに加えて、卒論を書いていく中で、いつか自分が教科書の続きを書きたいと思ったのがひとつ、就職活動に失敗してしまったのが少し(※ただ就活をやり直す目的だけで院に来るのはお勧めしません)。
進路変更に際して、進学や受験費用は自身のアルバイト代と奨学金から捻出した(学費の振り込み期限が4年次から偶然遅めになったこと、4年次に定期を買う必要がなかったこと、そして毎年もらっている奨学金が20万円ほど増額したのは助かった)。もし、院に進学したい人がいたら、在学中のお金はどう捻出するのか先に考えておいたり、予約型の奨学金を探して応募しておくと安心して過ごせると思う。特に後者に関しては、B3で申し込むようなものもあるので、早めに目をつけておいた方がいい。
院に入ってよかったこと
ゼミのように少人数の授業で、色んな作品をディスカッションできるのが一番楽しかった。たくさんの頭のきれる人に出会って、面白い話を聞くことができた。学部ではなかった絵画の授業を受講することもできた。絵画と文学は関係ないかと思いきや、絵画の勉強は文学作品のモチーフを理解して、作品解釈を深める手助けとなったし、聖書の復習にもなった。
あとは、ずっと出てみたかった学会にも出ることができた。出来はあんまりだったけれど、発表後に本をもらったり、映像化作品のDVDを譲ってもらえたりして嬉しかった。学術書や翻訳で有名な先生たちとお話しすることができる機会は学部で卒業していたら、こんなになかったと思う。
あとは、就活をやり直すことができた。学部の時には入れなかった憧れの業界に入ることができた。巷では院生は、特に文系院生は就活に不利であると言われることが多いけれども、そんなことはなかったと思う(博士後期やわたしが受けていなかった業界はどうか分からない…)。通過率は上がったし、面接官の対応も好意的だった。「どうして院に入ったの?」「どうして博士には進まないの?」という質問はよく聞かれたけれど、きちんと説明すれば大丈夫だったから、その人次第だと思う。だから、後輩たちは過度に心配しないで、適切な準備をしてほしい。
院に入って辛かったこと
院生になって辛かったことの一つ目は、とにかく孤独感が半端ないことだった。学部時代仲良かった友達は皆卒業してしまったうえに、同期とは友達というか、同僚のような距離があった。きっと学部のお友達は打ち明けたら、時間をお話を聞いてくれただろうけど、新しい環境でお仕事を頑張っているのに、久しぶりに会えるのに愚痴を聞かせるなんて申し訳ないと思って、「楽しいよ」と嘘をついた(ただ、最近会ったら元気になったねと口々に言われたので、気がついていたみたい)。入学前は院生になったら、同期とお昼ご飯を食べながら作品のディスカッションをできるかなと期待していたけれど、良くも悪くも皆ドライで個人主義なのでお昼を誘っても、皆すぐ家に帰ってしまう。一時期は寂しすぎて、手のひらサイズのぬいぐるみを持ち歩いて、その子とご飯を食べていた。(最近は後輩とか、先輩と作品のディスカッションできるようになったので楽しい♪)。
また、院に入ってから分かったことは、アカデミアという世界は思った以上にブルジョワであることだった。金銭面での辛さは覚悟していたけれども、これほど大人たちが無理解で精神的にキツくなるとは思っていなかった。人文学とは他者に寄り添うためにあるもの、そしてそれを促すものだと思ってきたけれど、どうも先生を見ているとそんなことはないらしい。
念のため言っておくと、大多数の先生は穏やかでとてもいい人だ。もし先生がこれを見ていたらなどという保身ではなく、本当に理想的な性格の人ばかりなのだ。優しく、余裕があり、教養がある。おしゃれで、流麗な言葉遣いや綺麗な身のこなしをする。
そう思わせるような人ばかりだ。けれど、みんなと一緒にいるととても苦しいと思う瞬間がある。皆が知っている世界はアッパーミドル以上のあくまで綺麗な世界なのだろうなと思うと気がある。ふとした時に別の階層に向ける視線はとても厳しいから。
貧困や格差、差別を扱う作品を読んで、いいことを言っていても、現実とは結びつかないのか、理解しないまま語るその暴力性を理解できないのか。努力や身の振る舞いでどうにかなることだけじゃない、本を読めることや勉強できる環境があることは当たり前じゃない。支えてくれる家族は必ずもいるとは限らない。そんな思いがいつも胸に込み上げてくる。
皆にとって、貧困や格差、階級はあくまで本の中の話らしい。そんな人たちの前でレナードになった気分はいつまでも拭えない。飲み会で家の事情を聞き出され、「家政婦みたいだね」と笑われたこともある。近頃教養がないと、人を傷つけることしか話せなくなるといった言葉をよく見かけるけれど、博士号をもった先生たちがこうなんだからどうもそうは思えない。学部の時も自分は光の中だけで輝くfalse gold と思ってきたけれど、院にきてからは、ここにいると、自分は光ることさえできないただの小石のような気分になってしまう。
せめて、嫌な人たちだったらいい。そうしたら、相手を憎むこともできるし、周りから同情もしてもらえるだろう(同情は嫌いだけど)。けれど、結局のところ皆悪い人たちではないから厄介なのだ。ただほんの少し想像力が欠けていて、見てきた世界がすれ違っているだけなのだと思う。せめて、嫌な人だったら憎むことも、嫌いになることもできるのに、みんな素敵な人ばかりだからこそ、「わたし」が場違いな場所に来てしまった気がしてとても虚しくなる。そんな素敵な人たちに行く当てのない羨望を抱え、ネガティブな感情を抱いている自分に嫌悪感が湧いてくる。
指導教員はいい指導者だ。添削は丁寧だし、建設的でなおかつ適切なフィードバックをくれる。同僚からの評判は二分しているようだけれど、学生のわたしからするとアカハラから無縁の人だと思う。だから、これ以上望むなんて厚かましいのかなと思う反面、階級や格差を扱う作品を論じるなら現実にも目を向けて欲しい、聡明な先生に自分のことを伝えたいと風に揺らぐ蝋燭の火のように相反する気持ちがゆらゆらとする。
後輩へのアドバイス
後輩へアドバイスをするとしたら、
「他人を頼ること、頼れるような関係を普段からつくること」
「辛ければ素直に辛いと打ち明けること(同期でも、先輩でも、先生でも)」
「バイトや聴講など定期的なペースで学外の人と強制的に合う機会をつくること」
「好きなものの時間は削らないこと」
「心持ちはポジティブに、リスクヘッジは堅実に」
を大切にしてほしい。院生になると、会う人が固定化され、それに所以する閉塞感がきつかった。だから、バイトや聴講などで学外の人に会う機会をつくるのが一番よかった。「院生はバイトはやめなさい」という先生や先輩も少なくないけれど、私自身は社会と繋がることのできるバイトはむやみにやめるべきではないと思う。外の世界の人と関わる機会、言われたことをこなせば確実に報酬を得られる体験、お金を稼ぐことの楽しみとキツさを実感する時間は浮世離れしないためにも、自分の精神的な安定のためにも持っておいた方がいい。また、睡眠時間を削ったり、好きなことを一切やらないなどの無茶はしない方がいい。というのも、研究は長距離走と同じで長い期間走り抜けて、最後の最後で結果を出さなければいけないから。無理をしても一時的には成果を出せるかもしれないけれど、どこかできつくなるだろう。
また、ポジティブな考えを持ちつつも、リスクヘッジや将来設計は堅実にしたほうがいい。アカデミアは退路を断って、苦労してナンボという考えがうっすらあるけれど、しなくて済む苦労はしないほうがいいし、自分の人生に責任を持ってくれるのは他の誰でもなく、自分だからだ。ここでこの道にいったら、どんな苦労が考えられるか、そしてそれを予防する方法はあるのか。院は(特に文系院は)良くも悪くも象牙の塔の雰囲気に流されやすいので、一つ一つ対策をしていった方がいい。でないと、ずるずると在籍し続ける羽目になると思う。
そして、困った時ほど適度に相手を頼るのが大事だ。去年までの私は、時折優しい先輩や友達が通学時間の長さや家計状況を気にして辛くないのと心配してくれても、「本がたくさん読めるから。思ってるより辛くない。」と誤魔化し続けた。心配をかけないようにというわけではない。辛いと言葉にしたら、心が折れて頑張れなくなってしまいそうだった。言葉とはそれだけ強力なものであるから。けれど、人間誤魔化し続けると、ガタがいつか来る。前の段落と少し矛盾してるように感じるかも知らないけれど、心配してもらったなら、素直に相手の肩に少しだけ寄りかかるのも、差し伸べられた手を取ってみるのもいいのかもしれない。
エピローグ
わたしは場違いな場所に来てしまったのかもしれない。院生室で他の机に並ぶラベルのない綺麗な本を眺めているとそんな思いが増してくる。
「本くらい買いなさい」
「家政婦みたいだね」
という先生の言葉は頭の中から消えてくれない。本を買えない院生なんて、研究者の卵として失格なのかもしれない。バイトに時間を割いているのも好ましくないのだろう。だけど、それでもわたしは文学は変わらず好きだ。精神的にも金銭的にも文学から少し遠ざかってしまったように感じている今、『ハワーズ•エンド』を読んでいると、いっそ本棚に押しつぶされて死ぬのも悪くはないのかもなんて思ったりもする。けれど、もう少し本も読みたいし、レナードやジャッキーみたいに他の人の物語の歯車になりたくないな——
そんなことを思いながら、電車に揺られていた。膝にはラベルのついた本たちがのっている。がたんごとんと電車が揺れるたび、階段のように重なっている本の重みがのしかかってくる。
水と油。金と小石。
交わるべきでない世界にわたしは来てしまったのかとしれないと思ってしまう。——大人しく高校の時の担任のいうことを聞いていればよかったかなと少しだけ弱気になって膝の上で握った手を見つめる。春からは民間で働く。研究書の続きを書こうと思ってここにきたけれど、もう続けられないなと思うようになってしまった。握った手に力が入る。けれど、今も夕暮れ時の誰もいない広い院生室で新しく作品や論文を読んだときの心の高鳴りや面白い解釈を思いついた時の興奮は今も健在だ。そんな思いを胸に抱いて車窓から覗く東京の街の空の狭さは今日も変わらない。
Fin…