カメラを買ったのをきっかけに、人間が文章を書く意味について考えてしまった
カメラを買い替えました。
使えるけど、なかなかピントが合わない。フリーズする。
そんな状態で騙し騙し使っていた、PENTAXのQ-S1。
父への誕生日プレゼントとして、私含む家族の女3人から贈ったものを、形見分けのようなかたちで譲り受けていたこともあり、できれば長く使いたいな〜と思っていたのですが、
まともに動かなくなってしまったので、渋々買い替えることにしました。
今度の機種はNikonのミラーレス一眼、 Z6 Ⅱ。
前のとは比べ物にならないくらい、高性能のカメラを買ったので、
「フォトコンテストとか、そのうち、出てみちゃう??」
と、調子に乗って、ニコン・フォトコンテストのウェブページを見てみました。
受賞作品は、なんかもう想像と全く違うものが並んでおり、
油絵ですか???
と問いたくなるような作品ばかりです。
レベルが高すぎるのはもちろんそうなのですが、あまりにも「絵」のような写真なので、
「写真である意味とは」
と考えずにはいられませんでした。
改めてしみじみと考えると、
「『絵』である意味」
「『写真』である意味」
って、一体なんでしょう。
絵であれば、その人が見ている世界や、その人自身の心が作品から伝わってくること?いやでもそれって、写真にも言えることだよなぁ。
絵みたいな写真だったら、「えっ、これ、絵なの??どうみても写真だよね?」みたいに、作者の技術に感動して、それが価値になることもあるかも?
そしたら絵のような写真だって、「えっ、これ、写真なの??(以下略)」となる。
考えれば考えるほど、絵である意味や写真である意味ってどうでもよくて、
「人がすごいと思ったり、感動したりすればOK」
という、実にシンプルな結論に落ち着くんですよね。
さて、今、Chat GPTが話題で、これからライター業を本格的にやっていこうという私にとっては、おそろしい話です。
Chat GPTは、詩や小説を書くこともできるそうじゃないですか。
そんな中で、人間が文章を書く意味って、どこにあるんでしょうね。
先ほどの絵と写真の話だと、「人が感動すれば絵でも写真でもOK」ということですが、その背景には、「作品を作っているのは人である」という前提があります。
その作者の内面を想像することも含めて、見る側は「感動している」ということなんですよね。
AIが描いたり撮ったりした上手な絵や写真みても、人は感動するものなのでしょうか。
「これ、AIが描いたの。すごいね。人が書いたのと変わらないね」
という驚きはあるかもしれませんが、感動、というのとは違うような。
文章に関しても、やっぱり感動させるとか、共感してもらうとか、考えさせるとか、そういう部分は人間がやらねばならない部分なのでしょう。
書く人の経験とか思考とか、そういうものが表現されたときに、読む人の心は動くものなんだと思うから。
しかし、ChatGPTが驚くべきスピードで学習して、人の経験を疑似体験するような感じで進化していったらどうなのでしょう。ChatGPTにも「人格」みたいなものができて、人間を感動させる文章を書くようになる?
そこまで進化してしまったら、「AIが書くか、人が書くか」という論点よりも、「AIも人も含めて、誰に書いてもらうか」という世界になってくるんじゃないでしょうかね。
「私はAIの〇〇さんの作品が好き」「いやいや、人間の〇〇さんの文章の方が面白いよ」みたいな感じで、並列で語られる世界。
そうすると、「AIではなく、人間が文章を書く意味」などを考えても無意味です。競争相手として、「自分以外の人間のライター」に加え、AIが参入してくるだけ。考えるべきは「人間が書く意味」じゃなくて、「私が書く意味」。これまでと同じことなんです、よね。
自分以外の人間のライターさんは、競争相手ではあるけれど、仲間でもあります。AIのライターにしたって、きっと仲間になり得るはず(と勝手に思っている)。
まずは、お友達になってみたいなと、とりあえずアカウントを作ってみよう。
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