若き親方の死
武家は力士を好んだ。その伝統で、成瀬家も相撲が好きだった。江戸時代の記録はないが、父は曽祖父の時から相撲が好きだったと言っていた。私にも「推し」がいる。
彼は現役時代から、笑顔の似合うやつだった。私が可愛がっていた力士の同期でもあった。
彼に会ったときの私は、人に連れていってもらった銀座のあるおでん屋を、贔屓にしていた。贔屓の力士は、ことのほかこのおでん屋が大好きで、いつも食事をご馳走すると言うと、毎回そこを指定してきた。そこにある時「一緒に同連れていきたい同期がいる」と、その力士は私にいってきた。その時、確か私は「好きにすれば」とその力士に答えたと思う。それが彼との出会いになった。後で聞いたら、その力士がそのおでん屋の話を自慢したら「俺も行きたい」と、せがんだらしい。それで私に言ったのだという。
彼は、成瀬家が以前から贔屓にしてきた部屋出身の関取ではなかったが、印象的な笑顔で、私に「よろしくお願いします」と、手土産を持ってやってきた。彼のその姿勢に、私は驚かされた。
力士の世界は「ごっさん」の世界で、それまで土産を率先して持ってきた関取を、私はあまり見たことがなかった。それは彼が大卒だからなねか?それとも、何か他の意味があったのか?今になっては、彼には聞きようがない。しかしそれは、彼と最後に会った今年の初場所まで続いたのである。
とにかく彼は、私の食事の誘いを決して断らなかった。晩年彼は「今日は成瀬さんと食事だと家族に言うと、家族はみんな、今日も1人で良いもの食べてくるのでしょう」と白い目で言われたと、私に言っていた。そして子供達の話も良くした。クリスマスにケーキを送ってあげたこともあった。私との食事会の日は、いつの間にか家族は外食になったのだと、自慢の笑顔で話してくれた。
彼が結婚した時、私は「このおでんの会は、独身が基本だから、辞めてくれ」と嫌味を言ったが、彼は気にせず「成瀬さんとの食事会は、かみさん公認ですから」と持ち前の笑顔で、切り抜けのだった。そのおでん店も、今は廃業してしまい、なくなってしまった。今回の件は、女将に連絡をしていない。コロナで疎遠になってしまっている。
本当に彼とは色々な店に行った。それは同期の力士が相撲を辞めても続いた。時に私が講演した時の講演料を、全て食べてしまったこともあり、その時はさすがに驚いた。
彼は、引退して名古屋場所の担当になった。場所の担当は、名古屋滞在が長期なのか、いつの間にか「場所前の6月中に食事に行きませんか?」と誘いがあった。そのため、名古屋のいろいろな所にも行ったが、印象的な店は、良く行ったホテルの中華だ。私はこの店が好きだ。昨年行った時に、彼は私に「こんな高級な店じゃなくても、成瀬さんと行く食事は、どこでも楽しいですよ」と嬉しいことを言ってくれた。しかし私は、確か照れて「私が中華を食べたかったのだ!」とそっけなく答えたと思う。その帰り、彼は名古屋でのリフレッシュが出来たと、私に笑った。
それから、彼はあまり現役時代、お酒を飲まなかった。しかし親方になってからは、ビールの量も増えて、アルコールを飲むようになった様に思う。しかし現役時代の時も、親方になっても、あまり体重の変化は見られなかった。彼は野菜が嫌いだった。私は彼が、心臓が悪いことも知っていたので、野菜を食べない事が体重の落ちない原因だと指摘しても「最近は子供に示しがつかないので、以前より野菜を食べるようになりました。トマトはダメですけど」と子供のように、いつもの笑顔で私に答えたが、その後も、野菜を率先して食べているようには、とても見えなかった。
思えば昨年の名古屋場所の時、体調をくずしたようだった。それを聞いて食事会の時、私は「無理しなくて良いのに…」と言ったら「成瀬さんとの食事会をキャンセルは出来ない。楽しみなんだから」と言いながら、なぜかステーキハウスで出た鳥の唐揚げを、2人前ベロリと平らげた。だから大したことないと思っていたが、今年の3月の人事異動で、名古屋の担当を外れるかもしれないと言ってきた。もしかしたら、名古屋の長期出張が、体力的にしんどかったのかもしれない。そのささやかな彼の言葉を、私は聞き逃してしまったのかもしれない。3月の人事は変わらず、彼は名古屋場所担当になっていた。
いろいろと頼んでいることもあり、5月の上旬まで彼とは連絡が取れた。彼はスマホに連絡すると、返信がとても早い人だった。夏場所の2日目、いつものように上京するので、夜一緒に食事をしようと、彼と約束をした。
ところが連休明け、彼は「入院したので、今回の食事会はキャンセルさせてください」と珍しい連絡が入った。そして「名古屋に行くのは未定になりました。決まりましたら、また連絡します」とも書いてきた。しかしその後、彼からの連絡は、2度となかったのだ。
彼も私の「note」のエッセイを良く読んでくれていた、だから最後、5月に送った2代正虎伝を始めるにあたっての文章は既読になった。しかしそれ以後1回も送ったメッセージが既読になることはなかった。
6月半ば、彼を知っている私の友人が、彼を夢に見たと連絡をくれたので、私も心配になり、色々なところに連絡して、確認を取った。そうしたら、少し病状が良くなったという情報を得て、安心をしていた。実は彼が亡くなった日の午前中にも「大丈夫?」と連絡をいれた。何か知らせのようなものがあったのか?その日の午後、去年の年末に彼と食事に言った店の人から、彼が亡くなった連絡を受けた。「うそでしよ?」と私は思い、彼が亡くなったことを知らせる記事を探した。そしてその記事を見つけて、呆然とした。本当だった。夕方、同期の元力士からも、悲痛な連絡が入った。
彼の訃報を知らせる記事の写真も、通夜の場の遺影も、あの自慢の笑顔の彼が居た。その笑顔が私には、彼が旅立ってしまったことを否定しているように思えた。また「成瀬さん」と笑顔を見せてくれるような気もした、何度考えても、本当に若すぎる。彼には、奥様も2人の子供もいた。この事は、遺族も予想していない出来事だったに違いない。そして本当は本人が、一番驚いていることかもしれない。
今思えば彼は、弟のような存在だった。いつも送ってくる年賀状は、子供達の写真だったはずだ、こんなに大切にしてきた家族を不幸にするのか!
だから私は、今彼に対して悲しみを通り越して、怒りを感じている。
いくら私が嘆いても、あの笑顔も「成瀬さん」と言うセリフも、寂しいが、永遠に見ることも、聞くことも、叶わなくなってしまったのだ。そしてもうあの楽しい名古屋での夜は、2度と訪れない。本当に本当に寂しい。
彼は犬山城に「今度行きますよ」と言いながら、来てはくれなかった。
7月14日から始まる今年の名古屋場所は、彼に変わって、残された遺族のこれからの幸せを祈り、また彼本人の冥福を祈りながら、私は彼との思い出を噛み締め、じっくりと観戦したいと思っている。