姫様俳話
8江戸時代の和菓子
父は俳人であったため、生前季節のものは、季節に食べたい人であった。だから老舗の名品を和菓子、洋菓子を問わず、私によく教えてくれた。だから私は、食に関しては、ちょっとした食通になれたような気がする。
しかし今、日本ならではの季節感は、地球温暖化のせいもあってか変わりつつあり、中々思う通りになってないのも、事実だ。だからもともとあまり上手くない私の句作は、困難を極め、犬山城に頼ってしまうのである。それと私は、申し訳ないが「花より団子」の精神が強いから、季節感は二の次だ。
春を感じる季節は、なんと言っても「桜もち」だと思う。代表的なところでは、東京長命寺の桜もちだ。しかし私は現地までは買いに行ったことはない。
季節感のない和菓子では、父は向島の「言問団子」と日暮里の「羽二重団子」が好きだった。特に「羽二重団子」は、明治時代の俳人や文人に好まれていたらしく、その文章にあげられている名品だ。しかし父は「言問団子」が大好物だったらしく、新宿の父の行きつけのふぐ屋の主人は、お店が自宅の近かったために、父によく買いに行かされた思い出があるらしい。
私は「羽二重団子」の方が、好きだ。
実は、大手印刷会社に勤務中の時の下請けの工場が日暮里にあり、そこの印刷の立ち合いがあると、必ず帰りには「羽二重団子」を買って帰るのが、私のルーティンだったからだ。
名古屋にも、いろいろな和菓子がある。
有名な羊羹、わらび餅の店、私が大好きな老舗の桜もちなどがある。その桜もちを見つけると、私は必ずと言って良いほど心が踊り、購入してしまう。そしてちょっと多いが、3つは買ってしまうのだ。
それから5月の節句のちまきである。これも同じ和菓子メーカーだが、5月の節句ちまきは、確か5月2日から5日の間にしか発売されないレアもので、中々手に入らない。最近は私も手にしてない品物だ。
私は何故か「ういろう」で作られた和菓子が大好きだ。だからこの2つの和菓子は確か「ういろう」で出来ていたはずだ。
2代正虎という人物は、当主の伝聞では、長崎に遊学していたという。しかしその記録は全くない。しかしなんとその遊学中に、初代正成は他界。かなりの親不孝だったとか…。その時期に、長崎の有名なカステラメーカーの老舗は、出来ていた。今年400年らしい。正成も400回忌だ。もし正虎の長崎遊学が本当であるならば、きっとあの新しいもの大好きな正虎は、そのカステラを口にしたに違いない。だから私の挨拶の手土産は、話を雄弁に術く、そのカステラを使うことが多いのだ。
祖父の1周忌だったか、仏事の返礼品はその当時では珍しく、祖父の学者としての研究テーマであった森鴎外にちなみ「森鴎外のペパーナイフ」だったと記憶する。しかしそれが、愛知県の風習には合わなかった。そのため、色々なところから「成瀬家ともあろう家が…」と非難を受けた。今思えば返礼品の格差で、人の法事は決まらないと、私は思う。だから、ひどい話だ。
そのため母は、祖母の法事にはかなり気を遣った香典返しや返礼品を用意していた記憶がある。
私もそれに習って、母の法事の返礼品には、木箱の羊羹3本入りを用意し、頑張った。しかし今度は、東京の親戚筋から「重い!」と、クレームをいただくことになった。名古屋は、重ければ良いという考えがある。名古屋で良くても、東京でダメなことは、多いのだ。
ついに父の時には、本葬当日のお菓子の返礼にし、1周忌の時には、軽いかの有名な店のバームクーヘンに様変わりをしてしまった。そしていつの頃からか私は、家紋付きのオリジナルのお菓子を土産に使うようになった。祝いも仏事でもである。
江戸時代、成瀬家のお茶会には、その季節のお菓子を添えている。有名な成瀬家のお茶会には、尾張公がお正客、亭主が8代正住というものと、2代正虎の小堀遠州の茶会で、詰めをやった記録が残っている。8代正住が亭主だった茶会は、行った時期とお菓子の銘が合わない。道具も「何で?」というものが、多かった。そのお菓子の銘は「梅の雪」と言う。老舗の和菓子メーカーでは、その「梅の雪」が、復元可能ということだった。そこで、展示のためのサンプルを制作するため、実際に復元してみて食べてみた。そうしたら、中々の美味だった。私はその時から、「梅の雪」を、成瀬家の茶会菓子とした。そしてその菓子が、今は季節ごとに色を変える。
その「梅の雪」が、一度味が変わったような気がしたことがあった。それをその老舗のメーカーの会長さんを私は存じ上げたので、その旨を言ってみた。そしたら大事になり「成瀬さんの味見でOKのものを、制作せよ」と言うことになってしまった。実は以前作っていた職人が亡くなったとのことが、原因であったようだ。
味見の時、2つの菓子が出てきた。その違いはと聞くと「1つはよく使われる上白糖を使って作ったもの、1つは水飴を使って作ったもの」であるという。なんと水飴の方が前の味だ。それを告げると「やはり」と言う。
江戸時代、砂糖というものは貴重であった。だから「上白糖」等使われない。そして甘味を出すには、水飴が多く使われたのだ。またこの菓子、今の菓子より少し甘い気がする。昔の菓子は、日持ちさせるため、少し甘く作ったようだ。それでもこの菓子は、あまり日持ちしないので、中々作る機会がない。今後はいつ出きるのか?それはわからない。
意外にも成瀬家には、色々と思い入れのある菓子があるのだ。
今の当主の兄にも、何故かお気に入りの羊羹が名古屋にあるが…いつも売り切れていて、買って帰れないことが多いと、弟がぶつっと言っていた。