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八十六話 二・二六事件

 話してくれたのは、寺尾精吉兵長。
 昭和十(一九三五)年、神奈川県出身の寺尾兵長は、麻布の連隊に入営。翌年二月二十六日の未明に勃発した二・二六事件で、中隊長の指揮下、首相官邸に突入した兵士の一人だった。
 ただ、官邸突入までは順調だったが、事件の二日後、天皇の奉勅が下ったことで、叛乱軍となる。結果、連隊に戻って幾日も経たない裡に、満州連隊に分散配属させられた。
 そして、この支那駐屯歩兵第一連隊の中隊にて、翌昭和十二年七月七日、第二次世界大戦の導火線となる盧溝橋事件を経験したのだ。

 事件の現場となった盧溝橋付近は、永定河の河床地帯で、演習には好適な場所だった。故に、連隊の各中隊が、演習場として利用していたから、地元の宋哲元師長率いる二十九軍は、面白くなかったのだろう。我が第八中隊が、演習を済ませ帰路についていた時、竜王付近にいた支那兵たちが、背後から十数発の実弾を射って来た。
 これが支那事変の発端の真相である。

 寺尾兵長は言った。
 「しかし君も十七歳と若いのに、よくそんなことに関心を持っているな」
 「ええ、軍國少年でしたから。兵長殿、自分にどうしても判らないことがあるんですが、お訊きしていいですか?」
 浅井は調子に乗る。
 「いいけど俺だって判らないことが沢山あるから、答えられるかどうか判らないぞ」
 「軍務局長の永田鉄山少将を相沢という中佐が日本刀で切り殺した事件がありましたよね」
 「・・・あった、あった。思い出した」
 「相沢中佐は、陸軍の重要な部署に就いている少将を殺したのに、平然と次の部署に就いて台湾に向かおうとしていましたね。あの神経が僕には判らないんです。それで、いつか心が許せる人がいたら、お訊きしようと思っていました」
 「ああ、あれは派閥争いなんだ。だから、永田派に敵対する派閥の支持があったんだよ」
 「・・・ただ、そうだとしても人を斬り殺しておいて、平然と次の任地に向かう神経が自分には判らないのです」
 「・・・言われてみると俺にも判らないな」

 消灯ラッパが鳴った。
 内務班は、不寝番を残して全員が寝床に入る。
 会話は勿論禁止されている。

 三十キロもの背嚢背負しょって、遙かなる行進の果ての新兵教育。足腰を伸ばせる寝床に入ったのは、実に四日ぶりだ。浅井は、横になるや否や、泥のように眠った。

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