百八十一話 飛込営業
浅井は軍服を脱ぐ。
濡らした布切れで身体をあちこち拭く。
銭湯へ向かう前の最低限のマナー。
「あ、それから言い忘れてたけど・・・」
背中からやや言いにくそうな芳枝の声が聞こえた。
「八百屋や配送屋も空襲に遭って、食べ物がろくにないの。ここに着物があるから、どこか当たって食糧と交換してきてくれない・・・?」
「えっ、どこかって?」
「そんなもん、畠や田圃やってる農家さんとかよ。今皆そうやってるわ。その間、服の洗濯から何からやっておくから」
確かに店があちこち潰され、町内で米の配給が行われていた。しかし、まさかそこまでするようになっていたとは・・・。
食うや食わざるやの中、浅井は数年ぶりの銭湯に浸かり、全身の垢を落とす。
物々交換、食糧調達のあてがない浅井は、戦場での苦労を思い出した。
徴発の達人、田村班長のような頼れる者はもういない。これからは一本独鈷で生きてかねば・・・。そう思いつつもやはり心の拠り所は聯隊。恩着せるわけではないが、風呂上がりの浅井の足は自然と佐倉に向かっていた。
初の営業的案件。池上線から山の手線に乗る。買い出らしい格好をした人が何人もおり、浅井同様佐倉で降りたのは心強かったが、しばらくするとちりぢりに散った。
駅から遠い農家のほうがいいだろう――そう考えた浅井は、田植えが済んだ水田脇の道を無心で歩いた。
気持ちのいいほど快晴。天空で啼いていた雲雀が、刈入れどきを待つ麦畑の中、急降下で舞い降りる。
空襲で焼け焦げた跡ばかりが広がる東京に比べ、田舎は何処に戦争の跡があるのか疑ってしまうほど穏やかな光景である。
歩兵として戦闘部隊に入った浅井は、北支、中支、南支と交戦しながら、約二千粁に渡って支那の農村を見て来た。その何処と比べても日本の田園風景は美しい。國は破れてしまったが、目の前に広がる祖国の景色に浅井の心は和んでいた。
それはともかく、どの農家を訪ねても米は売ってもらえなかった。
「御免下さい」
戸を叩き、中から人が現れるも、門前払い。
「私は闇屋じゃありません。隣の佐倉聯隊に入隊し、一カ月前支那から復員して来たばかりの者です」
怪訝顔の相手に説明するも無駄だった。
米は統制品である。突然現れた若者に売る訳がない。しかし、その日の食う物がないので、手ぶらで帰る訳にもいかない。浅井は下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるの要領で、次の農家を探し求めて農道を歩く。
そして、陽が落ちかける頃、やっと一軒の農家の縁側で母の着物を広げるチャンスを得た。断られることへの耐性もつき、怪しい者ではないことを流暢に説明する。
今までになく上手くいった――浅井が捕らぬ狸の皮算用で半ば自己満に浸っていると、その想いが通じたか、二升の米と農林二号のさつま芋四貫目を着物と交換してくれると言う。
「有難うございます!」
浅井は何度も頭を垂れ、戦果をナップサックに納めた。
生まれて初めて自分の手で母の為に食い物を手に入れた――。
外に出た浅井。心の中で小躍りしていた。
米を求めて何時の間にか遠くまで歩いていた。農家は都会の家と違って、出ればすぐ隣にある訳ではない。断られる度に防風林に囲まれた次の農家を目指し歩き続けた。その結果、浅井は自分でもわからぬ程遠くに来ていたのだ。
うろ憶えの道と景色を辿り、酒々井駅の方角に歩く。そしてようやく確固たる道を思い出し、駅前に着いた。
警察が二人おり、持ち物検査的なことをしている。
浅井は素通りして駅構内に入ろうとしたとき、懐中電灯で照らされる。
「ちょっと待ってください!」
警察に呼ばれ、ズタ袋の中を見られる。
「何だこれは」
「・・・」
「米や食糧は今配給制だろ!自分が何やってるのかわかっているのか!」
闇物々交換し、法律を犯した浅井。
初の受注を全て没収された。