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三話 治安維持法

 母と別れ、浅井は内務班に向かって歩く。営庭では、息子を送り出す家族らの宴会騒ぎがまだ続いているようだった。
 一方、連隊の隅の古井戸付近、同期で寝床が隣の馬見塚がいるが目に止まった。しかも、若い小柄な女性といる。
 浅井は俄然そっちに向かった。

 馬見塚は東京帝國大学の学生だが、マルクス経済の本を読む会に入ったがため、共産党の分子と見なされ、治安維持法で逮捕された過去を持つ。そこで、会の仲間の名を自供しなかったため、特別高等警察から拷問を受けた。いくつもの警察署をたらい回しにされ、挙句の果てに拘置所へ。その間、徴兵年齢に達し、兵隊検査を受けさせられる。結果、浅井と同じ第一乙種合格となり、佐倉連隊に入営して来たのだ。國が懲罰の代わりに放り込んだのかもしれなかった。
 
 毎晩九時に消燈ラッパが鳴り、兵隊達は寝床に入る。徴兵制で入営した他の新兵達に比べ、まだ少年の域を脱していない浅井ですら「九時はやや早いな」と思う。しかし、それが決まりである以上、人より一刻も早く寝、なるべく多くの睡眠時間をとることが肝要だと思い、目を閉じ、羊を数えていた。

 「君はいくつなんだ?」

 隣から声がした。
 薄暗闇の中、青々とした丸坊主の頭に、まるで病み上がりのように頬がこけ、弱々しげな年長者が居る。
 馬見塚だった。
 
 「満十七歳です」
 「志願して来たんだね。まだ君は中学生の筈だ。何故中退なんかしたの?予科練(海軍乙種飛行予科練習生)なら判るけど、ここはすぐ戦場に行くんだぜ」
 「はい、判っています。早く戦場に行って敵と戦いたいから、陸軍を志願して来たんです。日本軍は南のガダルカナルで一万余名、北のアリューシャン列島でも五千名、四千名の同じ日本人が戦死しているんです。彼らだけを死なせる訳にはいかないと思って、陸軍を志願したのです」
 ドヤ、反論出来ないだろう・・・浅井は今の自分はモチベしかないと、気負って返した。 

 「僕だって日本人だからお國の為になりたいと思って大学で勉強していたら特高に捕まってしまったんだ」
 馬見塚はポツリと言った。 
 「何故です?」 
 「マルクスが書いた本を回し読みする会に入ったら、共産主義者だと疑われたんだ」
 
 いきなり次元の違うことを言われ、言葉に詰まる浅井。
 赤化思想は悪い思想だと小中学校を通して教えられていたが、馬見塚は想像のはるか斜め上を超えてきた。
 そんな特異な経路で入営してきた人物だったが、浅井が明らか歳下だったから話しやすかったのだろう。以後、夜百発百中話し掛けてきた。 
 
 通常、内務班には古参の先輩たちもいて、規律を厳しく守らされる。しかし、浅井ら七百二十名の新兵はすぐ外地部隊に配属される要員だったので、ラッキーなことに先輩となる古兵がいなかった。そのため、修学旅行先の宿とまでは言わないが、かなり自由に過ごせていた。

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