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自己啓発と僕とおかん

プンと香るやつがいる
ふわりと匂うやつがいる
おおインスタのプロフィールが長い
おお名前の後ろに@でなんかついてる

プンと香るやつがいる
ふわりと匂うやつがいる
おお文章に句点が多い
おおとにかくごちゃごちゃうるせえ


これはかの有名な詩人、谷川俊太郎の一作から抜粋したものではなく、僕がある特定の人々についてささげた詩である。

この世には「意識高い系」と呼ばれる人たちがいる。

意識高い系(いしきたかいけい)とは、自己顕示欲承認欲求が強く、自分を過剰に演出するが中身が伴っていない人(言い換えれば、虚栄心が強い)[1][2][3]、前向き過ぎて空回りしている若者[4]インターネット(SNS)において自分の経歴・人脈を演出し、自己アピールを絶やさない人[5]などを意味する俗称である

Wikipedia

とにかく自己顕示欲がとんでもなく高い奴らの集まりである。SNSで個人が発信できる時代になり、その数は次第に増えていった。前なんか、あるひとのSNSのプロフィールを読んで「どひゃあ」と言って尻もちをついてしまった。大体こんな感じだった。

○○大学4回生 / 学生起業家 / このままではダメだと思いコミュ障 & 友達ゼロから一発奮起して起業 → 3ヶ月で月収7桁達成 / 自分の経験を活かして引きこもりでも起業できる方法を発信中 / 誰もが輝ける社会を作る / 夢は世界一周旅行 / クラフトビールとサウナ

ごちゃごちゃうるせえ。そしてスタミナ太郎の肉のように薄っぺらい。あの肉は最初食べた時ティッシュに着色料をつけて焼いているのかと思った。こいつもティッシュのようなものだが、その特有の香りを周りに撒き散らすだけにたちがわるい。ベラベラ喋ってる後ろから猛烈な勢いでカンチョーしてやりたい。


しかし、ここまで意識高い系をこき下ろしている僕だが、あろうことか、そのような時期が僕にもあった。大学一年生の時である。ホリエモンの多動力、チーズはどこへ消えた?、夢をかなえるゾウ、金持ち父さん貧乏父さんなど自己啓発系ビジネス本はあらかた読んだ。そして実際にITの分野で会社をおったて、大言壮語を掲げてビジネスの世界へと足を踏み入れたのである。

そのころは、自分のプログラミングで世界を変えることができると本気で思い込んでいた。そして自分にはその能力があり、大学生のうちから大金を手にすることができると信じてやまなかった。プロフィールにごちゃごちゃ書くことはしなかったが、マインドセットは完全に意識高い系のそれである。

なぜ大学生はこうなるのか?いや、大学生だけではなく、世の意識高い系と呼ばれる人たちは、どのような過程を経てプンと香る特有の匂いを醸成させていくのか。その領域に一歩足を踏み入れた自分であればこそ、その理由のひとかけらを開示できるだろう。

それは人生経験が浅く、現実社会に対する解像度が低いので、自分が新たなシステムやビジネスモデルを開発すると万事うまくいくと思い込んでいるからである。社会に対して働きかけたことがあまりないので、右足を動かせばどうなるか、左手を曲げればどうなるかの感覚がまだ掴めていない。赤ちゃんは目の前にあるものを手当たり次第に、掴み、口に入れ、その質感を確かめる。自分と世界の境界線を確認し、自分の一挙手一投足が世界にどう影響を与えるかを観察する。意識高い系とは、歩行もままならないのにチャリに乗ろうとする赤ちゃんである。

君は意識高い系のおばあちゃんを見たことはあるか?このような意識高いマインドは、時間と共に、人生の経験と共に減少する。それは何も自分に自信を無くして現実に屈するようになったという意味ではない。能力がないやつだけが、意識高い系のステージを降りていくわけではない。今まで不当に上回っていた「自信」が「世界への手応え」というパラメータと一致し、等身大で生きられるようになることを意味する。意識高い系プロフィールを書いてるやつは、能力があろうとなかろうと全員バカである。能力があろうとなかろうと自分についてベラベラと語り、代表とか起業家とか肩書きを書き連ねるやつは全員バカである。世界への手応えを確認し「身の程」を知った人は自分をよく見せようとは思わない。俺はもっとやれるはずだ、俺の価値はこんなものじゃないという自分と世界の均衡が取れてない勘違い野郎どもが、プロフィールに美辞麗句を並び立てるのである。


と、いうことを僕がつらつらと書いている間に、世のおかんたちは家族のためにせっせとご飯を作る。そこには承認も誇張も肩書きもあったもんじゃない。僕がこの世で最も尊敬しているのが「おかん」である。おかんこそが、承認欲求のくびきに囚われている現在の私たちが見習うべき高尚で高潔な生き方なのである。ちなみに実際のおかん、つまり自分の母親は嫌いである。

おかんは肩書きではなく生き方である。ここではそれを「おかんマインド」と表現する。おかんマインドとは何か?その真髄とは「身の回りのことをちゃんとやる」ことに尽きる。

おかんの活動圏は、決して広くない。家庭、よく行くスーパー、子供を通わせている学校、お隣さん。それを見て立派な志を持つ君はこう言うかもしれない。「そんな些細な身の回りのことばっかりに目を向けてないで、もっと大きな夢を持たないとダメだ。人は世界に目を向けてこそ成長できる、そんな生き方は井の中の蛙だ」しからば君のプロフィールにある「感謝が循環する社会をつくる」「人がつながる社会をつくる」という大きな夢を、君の身の回りから実現できているだろうか?自分の周りの人はどうでもいいと思っているのならば、書かないほうがいい。一体どうして、自分のすぐ隣にいる人に手を差し伸べられない人が、遠くにいる人を救えると思うのだろう?一体どうして、簡単な計算問題もできないやつが、京大の入試問題が解けると思うのだろう?口だけデカくて自分やその周りのことを疎かにしている自己啓発系。何も言わず、当たり前のこと、身の周りのことを当たり前のようにこなしていくおかん。どちらが立派な人間かは一目瞭然なはずだ。

「簡素な生活」という本がある。この本の一節が、おかんマインドを持たない我々の醜さをよく言い表している。

人々は人類や、公共の福祉や、遠方の不幸に熱中し、人生の道を歩いてゆくに際して、かなた地平線のはてにあってわれわれの心を奪うすばらしいものの上にじっと眼を注いで、行き交う人々に気が付かずに肘でつついたりします。

簡素な生活 / シャルル・ヴァグネル

大言壮語を掲げるのはいい。夢を持つのもいい。しかし、このおかんマインドを忘れてはならない。さもなくば、隣の人を肘で突っついて、遠くにいる肘で突っつかれた人に絆創膏を貼ってあげるという意味不明の事態が発生する。

自己啓発系とは、歩けもしないのにチャリに乗ろうとする赤ちゃんだと述べた。歩くことは、自分とその周りを大切にすることだ。自分の身の回りという土台を疎かにし、チャリに乗ろうとするやつはどこか薄っぺらくてプンと香る。土台が崩壊しているからこそ、社会に対する肌感覚が失われているからこそ、肩書きと大きな夢をプロフィールに惜しげもなく書くことができるのだ。さもなくば、自分の掛けた掛け軸の、あまりにも壮大なのを見て、窒息してしまうだろう。


自己啓発と僕とおかん。僕は生きているうちに、おかんのような人になれるだろうか。


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