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人生の守り方がわからない

これやらん?って言われて、その場の勢いでやります!って言ってしまい、めちゃくちゃやりたくないという現象が毎回発生している。なんとかしたい。これは信頼問題にも関わってくるのだ。めちゃくちゃやりたくないことなんか、力入れてやれるわけがない。そのため、テキトーにやってしまい(または全くやらない)、あいつは物事に対してテキトーなやつだ、とか真剣に取り組んでいないとかいう評価を下されるのである。もちろんその評価は全く間違っていないが、最初の段階で断ることさえできたなら、僕はもっと幸福な人生を歩める気がするのである。

なぜ断ることができないのか?ひとつは、単純に相手に対して申し訳ないという気持ちでいっぱいになるからだ。仮に、自分がこれやろー!って言って、ちょっと考えるわ、とかやめとくわとか言われたらガッカリするので、相手もかわいそうになってしまい、断れない。おそらく、断ることと、相手のアイデアを否定することが自分の中で混同されている。相手がすごいアイデアを思いつき、それを今ウキウキしながらに僕に語ってくれているのだと思うと、僕は彼の夢と希望を退けることなんて到底できないと思いながら、「必勝」と書かれた鉢巻を巻き、相手の肩を組んでともに意志を分かち合うのである。この時の僕は背中を押してやりたいという気持ちでいっぱいなのだが、一日後、落ち着いて自分の状況を眺めてみると、僕は頭に締められた鉢巻をするすると外して鼻くそをほじってしまう。相手にとってみれば、こちらの方が厄介だ。え、一緒にやるって言ってくれたやん。それやったら最初から断ってくれたらええのに。最初のうちに断ることができたなら、相手は騙されたような気持ちにならなくて済むし、僕には「口だけのやつ」という烙印が押されずに済む。というわけで、現在の僕は、頼むとなんでも快く引き受けてくれるめっちゃいいやつと表面上は思われているのだが、いざ深く関わってみると、何もしない、やったとしてもテキトーに物事を片付ける、地縁だけでのしあがった地方の若手政治家のような状況になっているのである。

以前、バイト先に、ジャズの出演依頼を頼まれた。なんでも、地方の有名和菓子屋さん百周年イベントをやるというのだ、これはめでたいということで、すぐに膝を打って出演しますということを伝えた。僕はさっそく頭に鉢巻を巻き、友達にめっちゃうまいサックス吹きがいるということと、最近ジャズの演奏機会がなかったからとても嬉しいということをつらつらと述べ立てた。僕の後ろではドンドコドンドコと太鼓がなっている。こうなると僕は止められないのである。人気の曲をジャズアレンジして演奏すれば、みんなのウケもいいし面白いかもね、という話になり、僕はスピッツのチェリーや、上を向いて歩こうなんかをジャズっぽく演奏することになった。バイト先の遠藤さん(仮名)は、よかったよかったと言いながら、満足そうに僕が出演することをパソコンに記入していった。僕はどんな感じで演奏しようかなと妄想を膨らませ、遠藤さんがキーボードを打ち込んでいる横で、終始ニヤニヤしていた。


イベント当日、僕は黒柳徹子のモノマネをしていた。サックスもピアノもドラムもあったものではない。黒柳徹子なのだから。徹子はなぜかミニーちゃんのコスプレをしたおばさんとジャンボリミッキーを踊っていた。顔を白塗りにし、スーツを着て徹子のカツラを被った僕は腕をぐるぐる回し、飛び跳ねたりしながらミニーちゃんと一進一退の攻防を繰り広げていた。ミニーちゃんはジャンボリミッキーを完璧に覚えており、僕もそれに負けじと足を閉じたり開いたり、腰を降ったり回転したりした。その前のステージでは、フラダンスや、アカペラなどの「ちゃんとした」地域の催しが行われていたはずだ。しかし、今目の前では黒柳徹子なのか、突如会場に乱入した変態紳士なのかわからないやつがミニーちゃんと一緒に飛んだり跳ねたりしている、これは一体どういうことなのだろうと、観客が与える視線を、僕は白塗りの顔の上からでもひしひしと感じていた。和菓子屋さんの社長は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。何も、僕は黒柳徹子のモノマネがしたかったわけではない。仮にしたかったとしても、ミニーちゃんのコスプレをしたおばさんとジャンボリミッキーは踊らない。このイベントの1ヶ月ぐらい前に、サックスのやつが出られなくなってしまったのである。僕はこの報告を受け「まあ、なんとかなるか」と思い、遠藤さんに連絡せずにイベントの三日前までそれを放置していた。ここでちゃんと報告すればよかったものを、僕が報告しなかったのは先述の通り、「言いづらい」のと「がっかりさせたくない」という理由からである。ステージ出演という重荷を一人で抱え込み、頭がおかしくなってしまいそうだった僕は、妙案「黒柳徹子のモノマネ」を思いついた。そして知り合いのノリのいいおばさんに、ことの顛末を話し、白塗り道具と徹子のカツラを持ってきてもらった次第である。そのおばさんのノリが僕の想像を超えていたので、一緒にジャンボリミッキーを踊ることになった。優しい遠藤さんは「ステージめっちゃよかったで」と言ってくれた。僕はその言葉を間に受け、なんとかなったと肩を撫で下ろし、安心してミニーちゃんと一緒に帰った。家についてふと当日のチラシに目をやると「阪大生によるジャズ演奏!」と大きな文字で明記されていた。遠藤さんは怒られただろう。ジャズ演奏ではなく白塗り徹子のジャンボリミッキーが敢行されたのだから。僕は自分の不甲斐なさと遠藤さんへの申し訳なさを頭から振り払うように、顔の白塗りをごしごしと洗い流した。顔をあげ、鏡をみると、和菓子屋の社長と同じような、苦虫を噛み潰したような顔をしている自分がいた。

僕は断りきれないという性格によって、人に迷惑をかけているし、何より自分の時間を自分のために使えていない。朝起きてカレンダーを確認し、なあなあで引き受けてしまったイベントがあるとき、ああ今日は一人でゆっくり本を読みたかったのにな、と心の自分は肩を落とす。「やることリスト」はやってもやらなくても変わらないようなことでいっぱいだ。本当に自分がワクワクすることは、海の底に沈んでしまった。自分がかわいそうで仕方ない。人生の守り方がわからない。


同じ悩みを抱えていた人が、二千年前にもいた。二千年前のその街は、今日と同じく海が見える。地中海を渡って南からやってくる乾いた風は、砂のかすかな微粒を含ませている。が、それも白い家々の壁に当たって、進み、当たって進むうちに、彼のもとに届くときには、ただ乾きがあるのみである。彼の一日はそんな風を吸い込むことから始まり、木でできた、食料管理庫の重い扉を開ける。彼の名はパウリヌス。ローマ帝国時代に役人として働いていた男である。彼の役割は、食糧管理庫にある大量の食物を、どうやってうまく市民に配分するかというものである。彼の記帳には、今どれぐらいの食料があり、どこにどれだけ配ったのか、そしてこれからどこにどれだけ配るべきなのかという、気が遠くなるような数字と計算式が網目のようにびっしりと書き込まれていた。長い間この仕事をやってきた。毎日業務に追われて大変ではあったが、やりがいもあったし、いい部下にも恵まれた。順風満帆な人生と言ってしまうこともできるだろう。しかし、自分はこのままでいいのだろうか。自分はこの食料管理庫の在庫管理、配分計画を立てることで一生を終えていいのだろうか。もっと他に、やることがあるのではないか。真面目で、抜かりのない彼の性分に、この仕事は合っていた。満足した給与をもらい、家族をこしらえて一家の主人として国のために働く。そんな完結した彼の人生に一つの影が差したのは、倉庫に住み着いている一匹のねずみの死だった。仕事が終わり、彼が机の上の書類をまとめていたとき、後ろでかすかに擦れるような音がした。後ろを振り返ると、一匹のねずみが逃げもせず隠れもせずに真っ黒な瞳で彼を見つめている。就業規則第百三十二「食料を損なう恐れのある害虫、害獣は目撃後速やかに処分すること」彼はその規則を忘れた訳ではなかった。ただあまりにも無防備なその姿を見て、彼の良心という心の火が無風のうちに微かに揺らめいただけである。彼は倉庫の扉を閉め、鍵をかけた。帰り道、彼はいつものように、今日の業務を一通り思い返して、失敗や改善点はなかったかと考える。最後に少しだけ、ねずみのことを考えた。明日もしあいつにあったら話しかけてみようかななんて思ったりもして、彼は家へと向かう最後の角を曲がった。翌朝倉庫の扉を開けると、ねずみは死んでいた。彼が昨日見かけたあの部屋の隅っこで、うずくまるようにして動かなくなっていた。ねずみは死ぬことがわかっていたように見える。昨日見たこのねずみの真っ黒な瞳は、自分の目前に迫った死を見つめる冷たい光だった。彼はひたひたと忍び寄る大きな影にただ身を委ねていた。逃げも隠れもせず。ねずみの小さな黒い瞳は、彼の人生に差し込んだ一筋の死の影だった。彼は記帳を開き、ペンを手に取り仕事を始めたが、頭の奥に自然と浮かび上がる小さな黒い点を拭い去ることは、いつまでもできなかった。

ある日、彼はポストに長い一通の手紙が投函されているのを見た。およそ百枚は超えるであろう手紙を含んだその封筒は、まるで古い物置小屋の隅にずっと置かれている大きな壺のように、彼に示唆的なメッセージを語りかけていた。彼は封筒を開き、最初の手紙を読む。

「パウリヌスよ、大部分の人間は、自然の悪意を嘆いて、こう言っている。われわれが生きられる期間は、とても短い。しかも、われわれに与えられる時間は、あっというまに、素早く過ぎ去っていく。しかし、そうだろうか。われわれが手にしている時間は、決して短くはない。むしろ、われわれがたくさんの時間を浪費しているのだ」

そのような書き出しから始まる手紙の差出人は、アンナエウス・セネカ。彼は人生の節目に立たされたとき、自分の人生の方向に迷い立ち止まったとき、この哲学者によく相談していた。彼が今の人生の生き方に対して抱いている漠然とした不安を分かっているように、セネカは続ける。パウリヌスは夢中になってページを繰った。

「ひとは、自分の土地が他人に占領されることを許さない。土地の境界線をめぐるいさかいが起これば、それがいかに些細なものであっても、石や武器を手にして争おうとする。それなのに、ひとは、自分の人生の中に他人が侵入してきても、気にもしない。いな、それどころか、いずれは自分の人生を乗っ取ってしまうようなやからを、みずから招き入れるようなことをするのである」

「ある人の髪の毛が白いとか、顔にしわがよっているからといって、その人が長く生きてきたと認める理由にはならない。その人は、長く生きていたのではない。たんに長く存在していただけなのだ。 ある人が、港を出た途端に、激しい嵐に襲われたとしよう。彼は、あちらこちらへと流されていった。そして、荒れ狂う風が四方八方から吹き付け、同じところをくるくる引き回された。さて、どうだろう。あなたは、その人が長く航海していたとみなすだろうか。否、 その人は長く航海していたのではない。たんに長くふりまわされていただけなのだ」

彼は、食糧管理庫の重い木の扉と、数字が書き連ねられた彼の手帳のことを少し考えた。彼は両手をそっと上にして、自分の手のひらを見つめてみた。そこには、ローマに張り巡らされた道路のように、昔よりも数を増やした無数のしわがあった。全ての道はローマに通ず。このしわは自分の人生に通じているだろうか。

「だからこそ、俗人たちのもとを離れなさい、パウリヌスよ。あなたは、その年齢に不釣り合いなほど、たくさんの出来事に翻弄されてきた。だから、静かな港に帰るのだ。あなたは人生のうちのかなりの、そして間違いなく良質な部分は、国家に捧げられた。これからは、その時間を少しでも自分のために使いなさい。」

読み終わった手紙を机の上に置いて、彼は目を閉じた。ねずみの瞳は、彼の中からまだ消えない。しかしそれは宙に浮かぶ不気味な一点ではなく、北極星のように彼を導く静かな輝きとなった。彼はその長い手紙の中の一節を、再び思い出した。

「 どうしてこんなことになってしまうのだろう。それは、あなたたちが、まるで永遠に生きられるかのように生きているからだ。あなたたちが、自分の脆さにいつまでも気がつかないからだ。あなたたちが、どれだけたくさんの時間が過ぎてしまったかを、気にも留めないからだ。あなたたちが、まるで豊かに溢れる泉から湧いてくるかのように、時間を無駄遣いしているからだ。 たぶん、そんなことをしているうちに、あなたたちの最後の日となるまさにその日がやってくるのだろう」


この手紙は今は、「人生の短さについて」という本の中で読むことができる。ローマが東西に分割され、数々の民族がその土を踏み荒らすことになっても、一連のこの手紙はギリシアの図書館に数千年の間保存され、今は梅田の紀伊国屋書店で990円で買うことができる。二千年の月日をくぐり抜けてきたこの本には、そこらへんにある意識高い系ビジネス書とは違う重みが存在する。それは時間と共に染み付いた、地中海特有の潮に含まれる「乾き」のようなものかもしれない。

僕は本棚にあるこの本を手に取り、ページをパラパラとめくって鼻を近づけてみる。その匂いからは、エーゲ海の暖かい乾風の撫でる、鮮やかな海の水面が浮かび上がってくるというようなことは別になく、メルカリで買った前の人の家の匂いが染み付いている。カレンダーを見る。今日のやることはバイトのシフト表提出、提出し忘れた出勤簿の提出、メルカリの梱包と発送、水道料金の振り込み、著作権法改正についての大学の課題、友達と謎のミーティング。エーゲ海もエピクロスも、サックスもピアノもドラムもあったものではない。人生の守り方がわからない。

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