というのは、大臣トゥンミ・サムボータの善説「スム・ター(lung du ston pa'i rtsa ba sum cu pa(Tohoku No. 4348), lung du ston pa rtags kyi 'jug pa(Tohoku No. 4349))」二つのうち『三十頌(lung du ston pa'i rtsa ba sum cu pa (Tohoku No. 4348))』の方の真髄の内容を要約して説明しようという著作の宣言である。
文字について
というのは一般的に音素(yi ge)には〔サンスクリット語の〕母音と〔サンスクリット語の〕子音二つがある。それら〔サンスクリット語の母音と子音〕に集約されない音素は存在しない。その中に私たち有雪チベットの言葉に必要不可欠なものは a li(母音)つまり、「〔サンスクリット語の〕音の機能を明らかにするもの」 i u e o の四つがある。明らかになってはいない仕方(潜在母音)に a もある。ka li(子音)つまり、「〔サンスクリット語の子音を〕明らかにするもの」には ka から a に至るまでの30がある。
というのは、da drag すなわち da の再後置字を有するものには、to が得られる。例えば、phyind to / gyurd to / bstsald to のようにである。
というのは、後置字(mtha' rten)のない場所には 'o が得られる。例えば、bya'o のようなものである。
というのは、他のものは単語の最後に後置字のなんであってもそれと一致して結合しなけれなならない。例えば、stag go / bzang ngo / bshad do / gsan no / btab bo / bsam mo / mda'a 'o / shar ro / bsal lo / byas so / などのように。
La 義について
というのは、それらを la義七種という。それらの意味は何と理解されるのかというなら、
というのは、shar phyogs su 'gro(東方に行く)のように、第二格・行為対象、rtar rtwa phyin(馬に草を与えに行く)のように第四格・必要目的、lha khang du rten gsum yod(祠には三つの拠り所(身口意)がある)といった第七格・所依、'od tu 'tsher (光に輝く)のように第二格の下位分類の自体(同格)、mi ma 'char kha ru 'gro(日が昇る瞬間に行く)のような第七格の下位分類の時間場合、以上の五つの意味に理解される。結合規則は、
とあり、sa で終わるものには su が得られる。例えば、gyas su / las su などのようである。
とあり、それらの最後には tu が得られる。例えば、'gag tu/ lag tu/ rgyab tu / 'gab tu / kund tu / sgyurd tu gsol / bstsald tu gsol などである。
とある六個全てはその末尾に du を得る。例えば、steng du / bshad du / mdun du / lam du / gser du / dpal du のように。
とあるのは、それら sa を後置字として持たないものは、zangs kyi zhag blug(銅製の大釜のお茶容器) のような共通基体の第六格と、steng gi mi(上階の人)といった所依・能依の関係と、手の指(lag pa'i sor mo)のような支分を持つものと支分との関係など、第六格の五つは前者と後者〔との間の関係を示す〕関係辞であり、
とあるのは、gi など sa を最後に有する五つは、第何格に結合するのかについては、〔文章の中で〕自身(主語)から「近いもの」でも「離れているもの」でも〔主語と動詞との間がどれほど離れているかに関係なく〕行為を表すという意味であり、第三格・行為者辞〔に結合する〕。例えば、mig gis bltas(目によって見る)のようなものが「近いもの(nye bar byas pa)」であり、mi gis shel rtse'i rtse mo nas phyogs thams cad du yang dang yang du legs par bltos so (目によってシェルツェ村のてっぺんから一切の方向を何度も何度も何度もよくみるのである)のようなものが「離れているもの('khyangs par byas pa)」である。第六格(yi)と第三格(yis)の双方の結合法則は、
というそれらの後置字三つのときの例は、 khyod kyi gdong pa / khyod kyis bshad / rgyab kyi gos / rgyab kyis khyer / gos kyi cha ga / gos kyis gyogs のようなものであり、shugs kyi go dgos pa は da の再後置字があるので、同様に kyi を得る。
という二つの後置字第三格は gi を得る。例えば、bdag gi nor / bdag gis bshad / chang gi sbang ma / chang gis ra to のようなものである。
というのは、 'a という後置字がある場合と、後置字がない場合大六格も第三格も、'i と yi のいずれかを〔任意で〕得る。例えば、mda'i ltong / mda'a yi ltong / mdas bsad / mda'a yis bsad / kha'i so / khas zas のようなものである。
接続・含意について
というのは、この三つの語は、〔順接・逆接という〕二つの接続と含意された意味三つを示す。まず、前後〔の言葉〕が一致していることを示す順接語の意味を有する例は、mdzes kyang mdzes(麗しく麗しい)、dri ma kha yang kha(垢がどんどん〔増える〕)、sha za'ang za(肉を食べに食べる)などである。前後〔の言葉〕が一致していないことを示す逆接語の意味を有する例は、mdzes kyang gos med(麗しいが服がない)、kun gyi lha yang mchod mkhan med(一切のものの神であるけれども、供物を捧げる人がない)、rgyan dga'ang phyis bdar med(飾りが好きであるが、綺麗ではない)のようなものである。kyang などの効力によって他の意味を含意する意味がある。例えば、lhas kyang btud do(〔人と同じように〕神であるが拝む)、sha yang za(〔野菜と同じように〕肉も食べる)、ltse'ang tshig(〔体と同じように〕舌であるけど熱い)のようなものである。
というのは、それらの終わりには kyang が得られるということである。例えば、bdag kyang 'gro / bshad kyang mi nyan / rgyab kyang na / chos kyang shes / phyind kyang ma bsleb / bka'a bsgyurd kyang mi nyan / bka'a bstsald kyang mi go のようなものである。
とあるのは、それらの終わりには、yang が得られるということである。例は、lha khang yang yod / lan yang mi 'debs / lam yang nor / khar yang bcug / dpal yang che のようなものである。
とあるのは、 'a 後置字を有するものと、後置字を有さないものには、'ang と yang のいずれかの種類のものが〔任意で〕得られる。例えば、mda'ang shes / mda'a yang shes / sna'ang ring / sna yang ring などのようにである。
有余字について
とあるのは、単語の終末の ta のみの te と、de と、sa ste の三つである。〔三つ全てを〕まとめて示すと、phyag 'tshal te bshad / chos bshad de gp song ste bslebs のようなものである。説示される内容に余り〔があって〕未だ述べられていないという意味である。結合法則は、
とあるのは、それら六つ全ての終わりに ta のみの te を得るということである。例えば、nyan te go / 'phar te 'gro / dgra btul te yong / rngos te tshig / phyind te bslebs / chos bsgyurd te bshad / bstsald te yi rang のようなものである。
とは、da の終わりには、de を得るということである。例えば、bsad de za といったものである。
とある gam などの11個全てについて、分割基体を最初に提示してから、分割を多くする例は、bum pa'i rgyu ni gser ram/ dngul lam/ zangs sam/ rag gam/ rdza las bya'o(壺の材料は、金あるいは、銀あるいは、銅あるいは、真鍮あるいは、粘土でできている)のようなものである。他方、分割基体を最後に持ってきて包摂を多くなす例は、 gser ram/ dngul lam/ zangs sam/ rag gam/ rdza las bum pa bya'o (金あるいは、銀あるいは、銅あるいは、真鍮あるいは、粘土により、壺はできている)のようなものである。あるいは、yin nam min(であるのか、でないのか)、yod dam med(あるのか、ないのか)のようなものである。であるのか、でないのか、と、あるのか、ないのか、の分類を分割するものは、分割の意味であると説かれる。それらの結合法則は、
とある。da の再後置字があるとき、tam を得る。例えば、phyind tam / gyurd tam / bstsald tam のようなものである。無末字のときには、'am を得るが、kha'am lta のようなものである。「他の場合は語末に合わせて結合する」というのは、語末に後置字がある場合、それがどのようなものであれ、それらと一致させて結合させる必要があるということである。例えば、stag gam / bzang ngam / yod dam / yin nam / lab bam / bsam mam / mtha'a 'am / shar ram / gsal lam / byas sam のようなものである。
詩脚の音節調節について
とあるのは、la義の ra と ru、第三格と第六格の 'i と yi、接続・含意の 'ang と yang などについては、詩脚(पाद)の音節数を追加する必要のない場合、ra と 'i と 'ang を得る。例えば、rang nyid lhar gsal thugs ka nas // dpal lha'i phyag gi mda'a dar ni // lha mo'ang bdga la shin tu dgyes といったようなものである。他方、音節数を追加する必要のある場合、 ru と yi と yang を得る。例は、rang nyid lha ru gsal nas ni // lha yi phyag gi mda'a dar ni // lha yang bdag la shin tu dgyes のようなものである。
とあるのは、終末辞の 'o と、名前の 'u と分類辞の 'am など詩脚の音節数を補う必要のない場合は、それらの上に音節ごとの区切り点(tseg)は加えられない。例えば、pal ldan lha mo'o srung ma'i gtso // pad ma'i ze'u 'brug dag las skyes // bdud mo'am yang na 'bag mo ste のようなものである。詩脚の音節数を補う必要のある場合、それらの上に音節ごとの区切り点(tseg)が加えられる。例えば、'di ni dpal ldan lha mo'o // ze'u 'bru las brdzus te skyes // lha'am yang na bdud mo ste のようななものである。
発生源について
とあるのは、nas と las の二つは、第五格・発生源を本質としており、その派生的な側面には、含んでいる分離基体から別々に分離する意味と多くを集約する意味がある。それらの中の分類は、
というのは、発生源本体であるならば、nas と las のいずれが結合したとしてもよいということであり、例えば、sa nas rtswa skyes / sa las rtswa skyes(地から草が生える) / ba las 'o ma 'jo / ba nas 'o ma 'jo (牛から乳を搾る)のようなものである。分離には、二つある。
とあるのは、分離基体と分離法とが同類であるなら、nas であり、las は得られないという意味である。例えば、lha rnams kyi nang nas brgya byin gzugs mdses (神々の中でも帝釈天は身体が麗しい)のようなものである。
とあるのは、分離基体と分離法とが異類であるなら las が得られるのであり、nas は得られない。例えば、lha las mi dman(神よりも人は劣る)といったものである。
とあるのは、集約という意味では、nas という言葉のみが用いられ、それをおいて las は得られないということである。例えば、spyi gtsug nas rkyang mthil gyi bar(てっぺんから踵の裏まで)のようなものである。
呼びかけの言葉について
とあるのは、特定の対象(目上の人)に対して呼びかれるのは、kye であり、〔自分と地位が〕同じくらいの対象に呼びかけるのは、kwa ye であり、〔本文にはないものだが、そこから〕派生して、自分より目下のものを呼ぶときには、 kwas と wa ye と was などを用いる。結合規則は、
とあるのは、大抵の場合、呼びかけられる対象が誰であっても、単語の頭に結合させる必要がある。例えば、kye rgyal bo chen po / kwa ye grogs po / kwas ma chen / wa ye chibs dpon / was bong dpon のようにである。〔本文にはないものではあるが、そこから〕派生して、ときどき名前の最後に結合せねばならない場合の例は、nga gi ngos grub stsol cig/ dbyangs can kye のような場合である。
分離と強調辞について
とあるのは、分離基体から別に分離するの意味と、強調(真剣・熱烈)の意味がある。その二つのうち前者の分離の例は、sngon 'gro/ dngos gzhi/ mjug gsum las dang po sngon 'gro ni(導入、本体、むすびの三つのうち、第一に、導入は、)のようなものである。第二の強調の意味は、ja ni byung(お茶こそが出来上がる)、mar ni byung(バターこそが出来る)、tshwa ni byung(塩こそが生じる)、bul ni byung(炭酸こそが生じる)、のようなものである。slom pa thams cad ldan par ni のように、音節の不足を補うような場合も、強調辞とされる。
Dang について
とある。単語の間にある dang は五つの意味があるうちの分類基体の最初に挙げられている集約について述べると、例えば、mig dang/ rna ba dang/ sna dang/ lce dang/ lus rnams ni dbang po'o/(眼・耳・鼻・舌・身〔根〕などは、根である)といったようなものがある。理由の意味を持つものについて説明すると、例えば、yi ge bris pa dang dag byed mkhas min shes so(文字を書いて、正書法によく優れている人ではないと知ったのだ)のようなものである。時間について述べる時間場合の意味の例は、nyi ma shar ba dang 'gro(太陽が昇るのと同時に、行く)のような例である。教誡を与える意味の例は、yi ge bris dang(文字を書いてください)、sum rtags sbyong dang(『三十頌』と『性入論』を学んでください)、dag yig zin dang(正書法を終わらせてください)のようなものである。
指示代名詞 de について
とあるのは、単語の最初にある指示代名詞 de の意味はたくさん説かれているけれども、要約して示すならば、前出語の指示(tha snyas 'das pa)と異門の指示(rnam grangs gzhan can)の二つの意味がある。その中から、第一の〔前出語の指示の〕使い方は、あるものに直接的に帰属する過去(過去に言及した内容)を意味するのであり、例は、「若者である。この者は体が大きく、この者は顔が大きい。このように大きい(mi gzhon pa'o/ de gzugs ring ngo/ de ngo zheng che'o/ de sked sbom mo)」のようなものである。第二の〔異門の指示〕は、直接的に明らに〔指示はしない〕が、指示代名詞 de の少しく異門(前出語を主語としながらもそれを異なる述語)と結合させる謂れがある。それを異門の指示と呼ぶが、その例は、「それに依拠してください。それを伝えないでください。それを持ってきてください(de la ltos shig/ de ma shod cig/ de khyer shod)」のようなものである。
とあるのは、zhig などの五つに ci が結合するという意味である。例えば、何が(ci zhig)もし(ci ste)、何のために(ci slad)、どのような(ci 'dra ci'i phyir)のようなものである。また、zhig には、ji zhig のように ji と結合してもよい。
とあるのは、snyed などの五つは ji に結合するという意味である。例は、なにであっても(ji snyed)、いつでも(ji srid)、例えばあのように(ji ltar)、その通りに(ji bzhin)、このようにおっしゃる(ji skad)のようなものである。
とあるのは、su というのは、プトガラ(gang zag)つまり心を有するものに用いられる。例えば、誰であるか(su yin)、誰が言っているのか(su yis zer)、誰にあるのか(su la yod)のようなものである。
とは、gang は心を備えるものも、心を有しないものも、その双方全てに用いられる。例えば、どこからなのか(gang nas yin)、何であるのか(gang zhig yin)などである。
主体者辞について
というのは、母音記号 o(na ro)がある po と bo と mo の三つ、そして、母音記号 o(na ro)がない pa と ba と ma の合計六つが、前にある単語の後について分割不可能な一単語になることである。例えば、dol yas / gyol / phyug / 'gag / lta rtse / chang のような単語に、新たに結合させると、以前の単語の意味は失われて、その単語がさすものの所有者(bdag po)もしくは、その単語がさす地域などに居住しているもの(sdod mkhan)のような他の意味を持つようになる。例えば、dol yas po / gyol po / phyug mo / 'gag pa / lha rtse ba / chang ma のようなものである。それらの結合法則は、
とあるのは、それらの主体者辞は pa を得るということである。例えば、g.yag pa / bzhad pa / ldan pa / lab pa / grong gzum pa / dbus pa / phar phyind pa / dbang bskurd pa / chu bskyild pa のようなものである。
とあるのは、これら五つの末尾を持つ単語と非対主体者辞(sdeb sa med pa bdag sgra)、つまり奇数音節だった場合、ba 、ただし発音上は wa を得る。例えば、kha byang ba / rta mda' ba / byang shar ba / khams dol ba / gzhis rtse ba のようなものである。
とあるのは、単語と有対主体者辞(sdeb sa yod pa bdag sgra)、つまり偶数音節であるならば、pa のみが結合すれば大概の場合よいということである。例えば、byang pa / mda' pa / gur pa / dol pa / rtse pa のようなものである。
とは、主体者辞ではない単語の終わりにある pa や ba も結合規則は大体主体者辞と同じであるという意味である。例えば、lag pa / rkang pa などである。
というのは、主体者辞 ma はこれにはこれを付けるといった決定事項はないので、場合に合わせる必要がある。例えば、za ma / chang ma / rong ma などのようなものである。
否定辞について
というのは、この四つ全てが適応されると、結合対象の意味がそうではない(de ma yin)、もしくはそれがない(med pa)ということを示すようになる。これを否定辞という。結合法則は、
とあるのは、否定辞の ma と mi の二つは、否定対象(dgag bya)の前に結合させる必要がある。例えば、ma yin / mi 'dug のようなものである。
とあるのは、 否定辞の min と med の二つ否定対象(dgag bya)の後に結合させる。例えば、lha min / 'dre med のようなものである。
というのは、否定辞の ma は否定対象(dgag bya)の前に結合するのみならず、否定対象(dgag bya)二つの間に適応させるなら、前後二つともを否定することができる。このような中間の明らかにするもの(gsal byed = go 'thub pa)にも付く例は、rta ma bong(服装が混合)、ra ma lug(言葉が混合)などのようなものである。
とあるのは、nga などの六つ全ての終わりには、zhing などの五つが結合する。例えば、「行って、行ったと言われる(song zhing/ song zhes zer ro/)」「行ったということである(song zhe'o/)」「行ったというならば(song zhe na/)」「ある祠がある(lha khang zhig yod)」などである。同様に、'byon zhing / bsam zhing / mi 'da' zhing / blo la shar zhing / gsal zhing / zhal la lta zhing など、論理に従って推し測れ。
とあるのは、ga da ba と da の再後置字があるときには、cing などの五つが付くということであり、その例は、bkag cing / bkag ces zer ro / bkag ce'o / bkag ce na / chu khog cig のようなものである。同じように、bshad cing / bkab cing / yind cing / yi ge bskurd cing / chu bskyild cing など論理に従って推し測れ。
というのは、sa で終わる単語に付け加えるのは特別な場合で、 shes を結合させるのではなく、zhes を結合させる。たとえば、chos byes zhes zer ro のようなものである。
とあるのは、他にも sa で終わる単語には shing などの四つが得られる。例えば、byas shing / gyis shig / byas she'o / byes she na のようなものである。先ほどの zhe'o や ce'o や she'o などは「言ったのである(zer ro)」という意味である。zhe na や ce na や she na などは「言ったとすれば(zer na)」という意味である。
とある。gug とあるので、i 母音記号(gi gu)と u 母音記号(zhabs kyu)、kyed とあるので、e 母音記号('greng bu)と o 母音記号(na ro)、brtsegs とあるので、ra 頭辞(ra mgo)、la 頭辞(la mgo)、sa 頭辞(sa mgo)、'dogs とあるので、 ya ra la wa という四下接字(smad 'dogs bzhi)である。これらいずれもない場合は、単独字(rkyang pa)と呼ぶ。そのような単独字(rkyang pa)ではあるが、前接するもの('phul byed)すなわち五前接字(sngon 'jug lnga)のいずれかがある場合、'a 終末('a mtha')が必ず必要となる。例えば、dpa' bo / mda' pa / 'ga' zhig などである。以前に説明した gug kyed brstegs 'dogs を持つもの(母音記号・頭辞・下接字を持つもの)には、'a 終末('a mtha')を落とす必要がある。例えば、sems can gyi / gwa pa / dar ba'i bde / go byed brda / rkyang te yu mo のようなものである。
とある。散文の中に要素が多くある場合、単語に切れ目を入れるようなものではない単語の間に文章の区切り線(shad)と音節ごとの区切り点(tsheg shad)をそれぞれを得る例は、rin po che'i za ma tog dang/ ngag gi sgron ma dang/ li shi'i gur khang などである。
というのは、短文の切れ目ごとに文章の区切り線(shad)を入れるということであり、例えば、de rang yin/ のようなものである。
とあるのは、偈文(tshigs bcad)の脚(rkang)の終わりに ga がある場合、一つの文章の区切り線(shad)を入れる。例えば、rnam grangs gzhan can gnyis la 'jugs/ のようなものである。
とあるのは、go ngo do no などの終末辞を末尾に持つものの散文(lhug pa)には、文章の区切り線(shad)を二つ入れる。'di ni rkyong ngo// のようなものである。
とあるのは、詩脚の終わりで、ga がないものには、偈文の終わりに必ず、詩文の区切り線二つ(rkang mthar shad gnyis)を入れる。例えば、bla ma mchog dang dbyer med pa'i// のようなものである。
とあるのは、大きな段落の終わりには、文章の区切り線(shad)を四つ入れる。例えば、dag byed gsal ba'i me long rdzogs so//// のようなものである。
とあるのは、有頭字の場合、最後の nga の文字と文章の区切り線(shad)の間に pa と誤認する惧れがあるため区別の音節ごとの区切り点(phyi tsheg)もしくは nga の音節ごとの区切り点(nga tsheg)を付ける。例えば、ma bsgribs shing/ のようなものである。他の場合、文字と文章の区切り線(shad)の間に音節ごとの区切り点(phyi tsheg)をつけない。例えば、g.yar za ba'i/ のようなものである。
上記のテクストは、チベット語の伝統的な文法学は、スンチュッパ(sum cu pa)とタンジュク(rtags 'jug)の二つに分けられる。前者は、構文に関わる学である。これは文章を読解したりする際に不可欠なものである。後者は、主に動詞の構成に関わる学である。これは正しい綴りで文章を作る際に不可欠なものである。
さて、今回の『善説樹王カチェン・ペマ注』は、スンチュッパ(sum cu pa)を学ぶにあたって最初に学ばれるものである。チベット人の子どもはよくこれを暗唱する。また、ダラムサラ(rda sa)の非チベット語母話者向けのチベット語学校でもこれを暗唱するようである。チベット語学習者にとってとても重要なものである。
Tentative Japanese traslation of Lekshey Jowang and its comentary by Kachen Pedma. (Legs bshad ljon dbang gi 'gral ba by bKa' chen pad ma). Translated by Masataka INUI.