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随筆(2020/7/4):単純な物の見方しか出来ない人と、キレイゴトしか認めない人の、近さ(中)価値観や規範意識は、認知バイアスたりうる

3.認知バイアスとしての価値観や規範意識

3_1.認知バイアスとしての価値観や規範意識

処世が出来なくなるくらい、世俗世間の解釈を過ちかねない、認知バイアス、というものがある。
この手の認知バイアスに強く関わるものとして、「単純な物の見方」とか、「自尊心」とかがある。

で、その他にも、まだある。
何か。
価値観とか、規範意識とかが、しばしばそういうのになってしまうということだ。
(特に、キレイゴトがそうだ。これは次回詳しく書きます)

3_2.処世上の運用としての「価値相対主義」の話をしているのではない

「は? 価値相対主義がイキってんじゃねえぞバーカ。
「指針無しで処世をしろ」とか、バカの塊みたいなことを、まさか言わないだろうな。
もしそうなら、速攻で処世の邪魔になる考えだ。邪魔すんじゃねーぞすっこんでろ」

は? 違うんだよボケ。人の話をちゃんと聞かずに、勝手にキレ散らかすなよな。
生半可に話半分に聞いて早合点して、先走りでチビってんじゃねーぞ。
そういうところでイチビる(調子こく)の、本当にそういうところだぞ。としか言えまへんな。

3_3.処世上の運用で、その都度その都度採用すべき価値は複数あるが、それは「価値相対主義」というより、「価値多元主義」の話だ

まともに世俗世間で社交や処世をやっているのなら、分かってもらえるのではないかと思うんですが。
処世のために準拠する、指針たる価値観は複数あるんですよね。
そして、その都度その都度で採用している主たる価値観が、その都度その都度でコロコロ変わるの、実によくあることだ。

そして、それをもって、ある種の人たちが言う、処世上の運用としての「価値相対主義」であるとは言えない。
「指針無しで処世をしろ」とも、よもや言うまい。
「何の価値も採用すべきではない」という話も、「何を選んでも同じ」という話も、特にないぞ。そんな話をいつした?

処世上うまくいっている場合、一個一個の価値観はその都度その都度準拠すべきものに他ならない。
「そうではない、それが準拠すべきものであるという話にはならないし、それは疑わしいのだ」という話も特にしていない。
とにかく、一個一個の価値観に準拠して、その都度その都度やる。そこに疑いの余地はない。これが、実践における、実際の処世であろう。
この時点で、ある種の人たちが言う、処世上の運用としての「価値相対主義」とは、別にならない、としか言えない。

まして、指針が無い? 指針は「ある」し、正に「その通りにやっている」ではないか。
一体どこら辺で、「価値相対主義」とか、「指針無しで処世をしろ」とか、そういう風に見えたのか?

「たくさんの価値がある」ということは、ふつうは「価値多元主義」と言われるものだ。
で、これは、「何の価値も採用すべきではない」とか「何を選んでも同じ」とかの「価値相対主義」ではない。
何せ、相対化ということを、特にしていないからだ。
そして、ここが決定的な差だ。

前の記事で書いたが、「物を単純な見方で見る」んじゃあない。
ましてや、相手が直ちに「物を単純な見方で見ている」と言って腹を立てるの、やめた方がいいですよ。
結果的にそれは、自分の単純な物の見方を、相手もしていると決めつけていた、というだけのことに過ぎない。

単純化された「物」は怒らないかも知れないが、単純化された「人」は、しばしば怒りますよ。
自分にとっては大事なところを、単純化した人たちからはすっ飛ばされて、要するに勘違いされている。
そんなことをする人たちの目利きは信用ならないし、そういう人たちはいつか勘違いでこちらを非難し、堂々と攻撃すらしてくるだろう。
そんな人たちに褒められても、根本的にはそんな人たちはリスクそのものであり、何なら脅威ですらある。という話はどうしたって出て来るだろう。

3_4.複数の価値観とはどんなものか

3_4_0.その都度その都度で、その都度その都度準拠すべき価値観は違う

その都度その都度で、その都度その都度準拠すべき価値観は違う。ということはよくある。そういう話をしました。

3_4_1.ケア/危害(優しさ等)

ある時は優しさの話をする。
これは、多くの人が、基底的な価値観として採用していることが多いものだ。
哺乳類の母親が赤子を育てる、というモデルに、ヒトはしばしば、強く感じ入るところがある。

3_4_2.浪費・非効率(資源の豊富さや節約等)

ちなみに、私は優しさを基底的な価値観だとは思っていない。
優しさには手間と有難みと嬉しさの話があり、それはコストと希少価値と効用(快楽)の話でもある。
資源の豊富さや、逆に節約の話が、実はある。
体力が枯渇した母親が子供に乳を与えていて母親が餓死した話を聞いたら、「ものすごく優しい」と単純に感動するというより、「飢えや渇きは惨い」という沈痛さが湧いて来ないだろうか?
そういうレベルの話は、優しさよりも基底的なところで、避けがたく生えてくるように思う。

ということで、ある時は資源の豊富さや節約の話をすることがある。
たいていはそういうのは、資源の足りなくなりつつある、危機的な状況下であるが…

あと、役所が「血税を使わない」節約を是とすると(是としたくなるでしょう。もちろん選挙ではこれをいう政治家の先生方はかなり当選しやすくなる)、「只働きをさせればさせるほど良い」ということが横行します。
これは、節約という観点からは大正義に他ならないが、公正取引という観点では邪悪の極みだと言えます。
私は、「業者様を呼んで金を払うのを避ける」ために、所内シスアドとして、給料は変わらず(つまり、只働きで)、半年もパソコン半数取っ替えとか、新システム複数導入とか、その他細々としたパソコン仕事とかさせられている。
不平不満? あるに決まってるが…?

3_4_3.公正/欺瞞(公正取引等)

そんなわけで、ある時は公正取引の話をする。
これが、節約という観点からは、阻害されるリスクがある。という話は、既にした通りです。
また、辛い話だが、公正取引は、優しさの観点からは「やる側がけち臭い」話だ。
逆に、公正取引の観点からは、優しさの話はしばしば「受ける側が盗人猛々しい」。と、こうなる訳だ。

3_4_4.自由/抑圧(自由意志等)

ある時は自由意志の話をする。

しばしば青少年が言うように、規範(特に、約束事)と、自由が、相容れないように見えることがある。
実際にも、自由を価値観として「常に」採用すると、優しさも公正取引も恣意的なものになる。
恣意的にしか採用されない優しさや公正取引や、そもそも恣意的にしか採用されない約束事全般などというもの、「誰かがこれを破って反故にして良い」程度のものだ。
そんな状況下では、そんな約束事、守ったら損をするし、損得の計算が出来ないからいくら損をさせても構わないバカだと思われるから、ますます損をする。
守るとバカを見るんだから、そのうち、酔狂人以外、誰も守らなくなる。
最終的に、約束事に基づく信頼等のメリットは、大幅に成り立たなくなる。
規範意識の強い人たちが、しばしば自由を目の敵にするのは、処世レベルで自由を約束事や信頼に優先すると、約束事も信頼もぶち壊しになるからだ。そういうことです。

3_4_5.所有(自分の持てる資源上の損得等)

ということで、ある時は自分の持てる資源上の損得の話をすることがある。(もちろんこれも資源に関する重要な価値だ)
公正取引と非常に密接な関係があるが、ふつうはもっと基底的な価値観だ。
とはいえ、これが表に出て来る時は、公正取引が脅かされている、危機的な状況下かもしれないのだが…

3_4_6.誠実(約束事等における誠意等の信義則)

さっきと同じ理由で、ある時は約束事等における誠意の話をする。
「これは約束事として、その約束事の通りにやるし、恣意の制約は受け入れる」
これが自由意志を部分的に損なうことは明らかだ。
だからこそ、「自分の意思決定で、部分的な自由意志の制約を受け入れる、我慢する」というのは、自由意志を処世とすり合わせるための、大事なメカニズムだ。
だが、これそのものは、契約の初歩レベルの誠意の話に踏み込んでいるのであって、純粋な自由意志の話ではもはやなくなる。

ちなみに、契約の話をすると、日本国外では信義則は運用上役に立たないとよく言われる。
取引の場では、話は聞いてくれるにせよ、共通認識はないこともある。
そんなところで、信義則などという原理原則の話では、マニュアルとしてのレベルではほとんど役に立たない。そういうことがあると、これはもちろん困る訳だ。

3_4_7.神聖/堕落(キレイゴト等)

ついでに言うと、比較的後世になってから出て来た、「恣意と自由意志は違う」という話、
「恣意を正当化するために、恣意の醜いところを度外視して、恣意の美しいところだけを、自由意志なる雅号で呼ぶことにする」
という側面をかなり強く持つ。
もちろんそれはある種の正当化の話であって、自由意志そのものの話ではもはやない。騙されてはいけない。

そういうある種の正当化の話をすると、優しさでも公正取引でも自由意志でもない別の価値観が、人間の脳に密かに埋まっている。ということが分かってくる。
何か。
実践面での「あれをしろ、これをするな」とは少しズレた、成果面での「ああであれ、こうであるな」という価値観がある。
美醜の判断と非常に相性のいい、実践を越えて成果にかかわってくる価値観。
平たく言うと、「キレイゴト」という話だ。

3_4_8.権威/転覆(地位の安泰等)

後はササッと済ませるが、「自分が、基本的に良い待遇を受けられる、安泰な状況下にあるか」という、権威や地位の話がある。
これも、実践というよりは、成果に属するものと言えるだろう。

3_4_9.忠誠/背信(集団忠誠等)

何かの集団に属していると、たいていうまみがある。
とはいえ、そのために集団が割いている資源を、ただ受け取るだけだと、いつか集団からは資源は損なわれるし、集団自体が崩壊する。
うまみ? もう出ねえよ。ということになる。

だから、集団のために、資源が枯渇しないように、何かしなければならない。ということはかなり避けがたくなってくる。
この、「集団のために」という集団忠誠のを尊ぶ文化圏、もちろんかなり広範に存在する。
(逆に、アメリカとかでいうリベラルは、これを全体主義等の忌まわしい体制のための契機として、まずは嫌っている。
リベラルと区別される、ガチの自由しか重んじないリバタリアンとなると、当然これを嫌う。
リバタリアンとは、平たく言って、政府の介入を極力認めないし、自給自足に非常に高い価値を見るような立場だ。集団忠誠、基本的にまるで相容れない、と見るべきであろう)

***

共通認識とはふつう集団から出てくるものだし、集団の結束を強める性質があるものだ。
共通認識があると、特に処世はだいぶやりやすくなる。

もちろん、共通認識がない中で、なおも処世をしなければならないことも、多々ある。
が、そういうときは、自分は何らかの意味で、集団の外の人として、居ることが多い。

先ほどの信義則も、基本的にはこの手の共通認識に基づくものだ。ふつうはそれは集団の中で行使される約束事だ。
(人間関係の間で成り立つこともあるが、それはかなり珍しい話であろう。
それに、ほとんどの場合は「集団の中の誰か」と「集団の外の誰か」という話であるはずだ。
もちろんその場合は、集団の話はやはり考えねばならない。要するに、集団の話を嫌うリベラルも、そこの話は避けられない訳だ。
これを徹底するとどうなるか? というと、おそらくはリバタリアンになるのだろうな)

3_4_10.自制

自制心もしばしば重視されてきたところです。
もちろん節約に対してとてつもなく効いてくるところです。

それに、よくあることですが、自分の敵意を、人関係者や仲間に向けると、これは処世にとてつもなく悪い効果があります。
何らかの腹立たしい気持ちは、あるものだとしても。
たとえその出所が疑う余地もなく関係者や仲間から出てきたものだとしても。
ちゃんと「処世に抵触しないように」「戦って勝ち取り」「堂々と居座って戦利品の有り難みを味わう」ためには、ここでキレたら全部ぶち壊しだし、段取りも台無しになる。
なので、勝てるデッキを構築するまで、耐える。ということは、しょっちゅうあることです。

また「今、資源的ないし技術的に解決出来ない問題」に対しても、短中期的には、やはり耐えるより他に選択肢はないでしょう。これもしばしばある話です。

3_4_11.ジョナサン・ハイト等の価値多元主義

以上の話は、道徳心理学者、ジョナサン・ハイトの本、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』本文(第8章が網羅的に見易い)と脚注(特に第8章脚注25,53)にある、多元的な価値の羅列になります。
ジョナサン・ハイト、群淘汰と価値多元主義を採用して、統計をガーと取っている、変な(著作をまともに読むと、ところどころで、変な、と言わざるを得ない)道徳心理学者です。
が、言っていることは猛烈に示唆に富みます。オススメ(していいのか? 特に群淘汰のところは、かなり眉に唾を付けて読むべきところではないのか?)

次回は、特にキレイゴトに関して、「これが認知バイアスとして機能する」「とはいえ、単純に除去も出来ない」という話をすると思います。
(というか、下準備が長すぎて、そこまでたどり着けなかった)
乞うご期待。

(続く)

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