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随筆(2024/10/26):事実の記述や、丁寧な表現を、悪意ある皮肉と受け取られないように、気を付けるべきポイント


1.言語の意味には、言葉の上での意味と、発言が出てきた状況の下での意味がある

しばしば意識されず、何なら忘れ去られているのですが、
「言葉の上での意味と、実際に通用している意味合いが違うこと」
というのが、世の中にはたくさんあります。
本当は、言葉と意味の対応をやっていても、実態の理解には限界があります。
言語学におけるこの対応付けの路線を意味論と言います。もちろん、限界があると言っても、後述の語用論とのギャップが生じない状況下では、基本的にはこれで十二分に役に立ちます)
発言が出てきた状況、つまりは文脈を含めて、
「この文脈では、この言動は、こういう意味を帯びる」
というところまで捉えなければ、言葉を実際に理解しているということにはならない。
(言語学におけるこの路線を語用論と言います。言語学にはいくつかのコアとなるサブジャンルがあり、一般に語用論は言語学の中でも最も高度なものになります)

2.だから皮肉というものは成り立つし、自分の発言が皮肉として受け取られるリスクも生じうる

地獄のようなことを言いますが、だから皮肉というものが成り立つ訳ですし、自分の発言が皮肉として受け取られるリスクも生じうる、というものです。

「事実をそのまま記述していたら、相手に悪意ある皮肉として受け取られて、理不尽な怒られが発生した」
「丁寧な表現を心がけたら、相手に悪意ある皮肉として受け取られて、理不尽な怒られが発生した」

こういうことで腹を立てる状況は、長い人生、自分や周囲において、しばしば見られることではないでしょうか。

3.理解出来なかろうが現に在るものを、見ないようにして振舞っていたら、後々そこでつまづくのは、むしろ当然

しかし、よく考えたら、
「事実記述をツッコミとして使い、相手をボケ(悪口の方の)としてあげつらって晒すこと」
も、
「丁寧な表現で馬鹿にする慇懃無礼な運用」
も、世間で実際に横行している、つまりはそういう文脈が実在している訳です。
だったら、それらと外形上区別しがたいことをしていたら、
「これらの形の悪意ある皮肉をやっている」
と受け取られるのは、残念ながらしょうがないんじゃないでしょうか。

そこで、もし
「文脈をすっ飛ばして発話して、文脈に基づいて怒られたのは、納得いかない。なぜ言語行為において文脈をすっ飛ばしたら怒られるのか?」

なんてことをしていたとしたら、怒られるのはかなり当たり前なのではないでしょうか。
文脈のある状況は実際にもかなり多く、じゃあそこですっ飛ばしたら、それは横着というものです。
言語行為において、文脈は、あるし、あることがかなり多くの場合の前提になっている。嫌だと言って逃げ回っていたら、そうした領域から締め出されるのは至極当然である。
テーブルにつかないで食事をすることはできるが、もちろんふつうそれではテーブルの上での会食と同じようにはならない。
そして、テーブルの上で会食をしたい人に
「己はお前と同じテーブルにつきたくない」
という態度を示したら、「したい」人相手に「したくない」と拒絶したことになる訳で、やりたいことをやれなくなった相手が、何はさておき「ちぇっ」という反応になるのは、かなり当たり前でしょう。
心外に思う? 何で? 無茶言うな。

もっと悪いことに、
「文脈を意識していない」
というのは、実際には
「自分の意味することが意図通り受け取られる文脈だけが成り立っていてほしい。
世間一般的にはそうではなく、自分の意味することと受け取られ方に乖離があるのは当たり前だ、という話、納得いかない。
ましてそこでギャップのすり合わせに注意や労力の精神的コストを割きたくない。
ということで、すり合わせをちゃんとしているやつに一方的にコストを押し付けている実態が自動的に生じていることになるし、それに自分は疑問や問題意識を持たないし、持つ謂れがあるとも思わない」

という運用になっていることがかなり多い。
要は、文脈は実はあることは認めつつ、そこへの適応のコストを全部相手に押し付けることで、自分は意識しなくてよい、という運用をしている訳ですね。
そりゃ怒られますよ。ちゃんとしている人にコストを押し付けてたら、「不公平だ」と思われるのは、そりゃあそうでしょう。申し開きのしようもない。

4.じゃあ、どうすれば、自分の発言を、皮肉として受け取られないで済むのか

ということで、自分の発言が、皮肉として受け取られるリスクは、現に在ります。
理不尽に思うかもしれませんが、そんなこと言ったって、在るものは在るので、その上でトラブルに巻き込まれたくなければ、それは備えねばならない訳です。
そして、さっきも言いましたが、これを他人に備えさせる訳にはいかない。

じゃあ、どうすれば、自分の発言を、皮肉として受け取られないで済むのか。

最近、一つの判定方法を見つけました。

5.自分の発言の末尾に罵倒語をつけて、「罵倒として意味が通る」なら、その発言は「罵倒語を省略した皮肉」として受け取られうるので、それらを全部やめる

それは、
「自分の発言の末尾に罵倒語を付けたバージョンを想像してみる」
ということです。
それを脳内で読み上げてみましょう。
罵倒語をつけたバージョンが、皮肉としてナチュラルに通じそうか?
それとも、罵倒語を付ける前はナチュラルだが、付けた後はナチュラルに聞こえなくなるか?
全ての発言が後者になるようにして、前者になるような発言は全てやめる。
具体的には、末尾に
「ザーコ」

「ああ、お前頭悪いから分かんないか」
とか
「これだから二級市民は」
をつけたら、罵倒として自然に成り立つ発言を、とにかくしない。
なんとこれが、自分の発言を皮肉として受け取られないようにする、ある程度の防衛手段として機能します。

なぜか?

罵倒語が発せられる状況下で罵倒する発言が、罵倒として成り立つことは明らかでしょう。
そして、ここからがカジュアルなこの世の地獄なのですが、罵倒語が発せられる状況下で、通常の罵倒から罵倒語だけ抜いた発言をすると、それは「罵倒語を省略した罵倒」というタイプの皮肉として機能します。

これのうまいところは、直ちには罵倒に聞こえづらいので、自分は罵倒した責任を負わなくて済むし、これを突き付けられてちゃんと意味が通じたためムッと反発してきた相手に対して
「自分はそんなこと「は」言ってない。お前が悪意で取っている。悪辣なのはお前の方だ」
責任を押し付けることができる、ということです。

どうでしょうか。
そういう観点から、この手の発言をする人を見ると、猛烈に悪辣に見えてきませんか。
「クソ野郎が喋んな」
くらいのテンションになって来ないでしょうか。
あるいは、そういうテンションでムカついている人の気持ちは、おぼろげながら理解はできるのではないでしょうか。

だから?
自分がこの手の悪辣な皮肉屋だと思われると、これは極めてマズい訳です。
そしてこれらは、上の工夫によって、かなり防げるリスクです。

どういうことか?

要は、これらをつけて罵倒として解釈しようとすると、聞いていて何かしら不自然になる場合、元の発言も罵倒語を抜いた皮肉としては受け取られにくくなります。脳内で読み上げた時に不自然になるからです。
つまり、これらは誤読の余地の少ない発話行為となります。

家庭や職場で、誰かが対面や電話で応対しているのを横で聞いていると、似たように丁寧にやり取りしながらも、
「ま、内心ではお前はカスやし、テキトーに言いくるめて引き下がらせるつもりなんやけどな」
と思ってそうな人と、
「誠心誠意こう思って喋っております。ご納得戴けませんでしょうか」
と思ってそうな人が、分かれて見えることがあるでしょう。
ここの微妙な差を自分の血肉にして、後者のような言動だけを、選り抜いて使うのが大事だ、という話です。

6.もちろん信頼の構築は王道として大事なのだが、それはもっと細かい手管をやらなくていい理由には特段ならない

今までの話を全部ぶち壊すようですが、長期間にわたって信頼を構築しておくことによって、
「この人は本心から言っているのであり、悪意ある皮肉を口にするような人ではない。そこの疑念は持たなくてよい、警戒しなくてよい信頼できる相手である」
と思われるので、発言を皮肉として受け取られて理不尽に怒られるリスクはかなり低くなります。
これは、やや深い人間関係においてはほぼ常に必要となる、王道とも言うべき姿勢になります。
いずれ、これをやらないでは済まされないでしょうし、基本的には年がら年中ひたすらやることになります。

とはいえ、それは先程の細かい手管をやらなくていい理由には別段なりません。
信頼を構築する前の段階では、
「こいつは付き合うと嫌な目に遭う厄介人間かも知れない」
という警戒は、あって当たり前です。
人付き合いのテーブルの上でやる以上、厄介人間としての厄介言動はとにかく避ける。これがこの段階では基本戦術となるでしょう。
罵倒? 皮肉? 厄介人間の厄介言動と思われるに決まってる。やめましょう。

そして、罵倒しない人や皮肉を言わない人の方が、話の上では信頼されやすい訳です。
信頼を構築するにも、罵倒や皮肉は避けるべきだ、というのは分かって戴けるかと思います。
そして、これに加えて、自分が言っているのが皮肉だと思われないための手管は重要、という話を、今回はしている訳です。

誤解、されたくありませんよね。
じゃあ、手管、キッチリとやってやりましょうね。

(以上です)


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