随筆(2022/1/11):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_23)(共存とそのためのルーチン)
1_23.共存とそのためのルーチン
1_23_1.人一人を越えた人間関係をやるとき、人一人を越えたルーチンは避けられない
家事や生産活動や賃労働や組織経営などの、他人との人間関係などにおいて、何かのサイクルを回す時があります。
その時には、必ず何らかの定型作業、いわゆるルーチンが発生します。
人一人を越えた人間関係をやるとき、人一人を越えたルーチンは避けられない。
たいてい、しなければならないことは、山積みです。
誰かに手伝ってもらいたい。
1_23_2.人間関係の中の人が、当事者意識を持たない、ということはあってはならない
何なら、それが他人との人間関係で生じるものなら、相手にも
「これは私の当事者意識と責任感でやることでもある」
と真面目にやってもらいたい。
「私にはこの人間関係とそれにまつわるルーチンに当事者意識と責任感がない」
という人と、人間関係を結んだら、そりゃあ、その人間関係は、搾取ですよ。相手からあなたへの。
「やる気がないなら出ていけ」と言うの、当たり前だと思いますね。
むしろ、「何で言われないと思った?」くらいのことは言って良いのでは…?
ということで、人間関係に立脚するものに限ると、人間関係のルーチンというのが、絶対に出てきます。これは、各主体が、やらねばなりません(やれる主体に限る。やれないうちの子供に何でも強いてはならない。後述)。
やらなかったら? そりゃあ、いつ破門されても、絶縁されても、仕方なくないですか? 人間関係を食い物にしてんじゃねえ。
サイクルは、回す。
人と人とがやっていくなら、それはふつう一人でやるのとは違う回し方になる。
じゃあ、そのやり方はうまく工夫した方がいい。ここからが次の話になります。
人と人とがやっていくなら、そこを粗略にしたら、そりゃあ立ち行かない。
それに、粗略にした側は、粗略にしていない側に、人間関係や集団から蹴り出されても、何も文句は言えない。気を付けましょう。
1_23_3.分業とか比較優位とかをすると、コストに対する成果の比率が上がる。というか、それをしないで回るほど、日々の状況は甘くないはずだ
そして、ここからが肝心ですが、複数人の人間関係や集団のルーチンは、各人に分散した方がいいものと、各人がより低コストで大量生産できる方をやって、そっち側により集中した方がいいものがあります。
これは両方とも断固としてあります。
「どちらかしかない」と言い張っている場合、何らかの思想的な理由でそうしているだけで、その思想そのものは、ルーチンにとって、邪魔なだけです。
何なら人間関係や集団そのものにすら有害でありうる。そうなったら、その思想を保持する理由はゼロです。
ここでガタガタ言ってる限り、その人にはルーチン全般について何らまともに考える気がない。という話にしかならない。
***
ちなみに、「ある種のルーチンを一人に集中して、コストに対する成果の比率が増える手法」は、分業とか、貿易理論だとリカードの比較優位概念と呼ばれるものが近似になります。
「各経済主体が(複数あり得る自身の優位分野の中から)自身の最も優位な分野(より機会費用の少ない、自身の利益・収益性を最大化できる財の生産)に特化・集中することで、それぞれの労働生産性が増大され、互いにより高品質の財やサービスと高い利益・収益を享受・獲得できるようになる」というやつです。
分業とか、比較優位とか、本当に大事。
だもんで、「人によって得意な事は違うから」の精神で、お互いの比較優位を洗い出し、分業をすることを、かなり真剣に他人と詰将棋で話し合った方が良いし、それは当面の間、実務を見ながら定期的に配分を改訂ということになるでしょう。
何せ時間は一日24時間しかない(起きて働ける時間はこれよりずっと短い)し、人の気力体力は有限だからね。比較優位をやらないで十分な成果がもたらされるほど、日々の状況は甘くはないはずだ。
1_23_4.他の人が、より出力や生産性の低い中で、それでも頑張ることをせねばならない場合もある
その上で、幅のある運用のバリエーションを考える。ということはしなければなりません。
例えば、誰かがダウンしたら、どう他の人が、より出力や生産性の低い中で、それでも頑張るか。ということです。
ベスト以外は無、という0か1か思考、よくないですよ。パフォーマンスが低くても、やれるならやらなくてはならない。そうしなきゃ回らないんだから。
1_23_5.安全安心な生活のためにも、やはり、感謝を表す。「やくめでしょ」で感謝をケチると、揉める
そして、人間関係の誰かが、人間関係を維持するためにやっていることには、人間関係の中の他の誰かからの謝辞がなければならない。
感謝をしないと、そいつのコップにだけ金属粉末や農薬や殺鼠剤が入っていることだろう。安全安心な生活、大いに危うい。よくもそんな恐ろしい状況を自ら招こうとするよな。
だから、せめて私は感謝は欠かさないようにしたいんですよ。自分の安全と安心のためにも。
1_23_6.人と人との間で、伸び伸び出来る環境を作るためには、最低限の努力はどうあったって必要ですよ
え?
「そんなこと考えずに、伸び伸びとしたい。そんな緊張を強いられる環境下で、家庭を築きたくない」?
そうですね。でも、それは、無理というものです。
あなたが子供ならいいよ。ふつう、今の日本では、大多数の子供は、生まれてから同意なく家族に組み込まれたのだし、そういう意味では、厳密な意味では、子供は家族の成員ではないのだ。家族としての義務、ある訳がない。
だが、ふつう、今の日本では、大多数の大人は、自分の意思で家族を築いたはずである。自分で人間関係を、特に家庭を構築したのだ。当然、それを維持するための努力が要るし、それは何らかの緊張を伴うものとなる。その程度のことなど百も承知だったのではなかったのか?
「リラックスするための場としての家庭をやる」というのは、だから最初から貫徹出来ないんだ。そもそもそんなことのために結婚したのなら、とんだ見当違いであろう。
生活上のリラックスでは、一人暮らしの方がはるかに気軽だし、人に甘えたいならその時だけ会いに行けばいいんだ。だから、別居して通い夫婦等のスタイルにすればいいんじゃないでしょうか。と思っちゃうんですよね。
(ただし、もちろんこれでは子育ての時に大きな問題になる。これは後日別の記事で書きます)
1_23_7.自分が人間関係のために何もかも捧げているからといって、他人にまで何もかも捧げさせてはならない。というか、「何もかも捧げる」のがまずダメ
1_23_7_1.人間関係と公正取引と何らかの労働と人権とをすり合わせてみる
あと、とても気を付けねばならないことがあります。
個人を越えた人間関係や集団を、ルーチンも込みでまともに認識すると、どうしても「人間関係や集団の運営のためには個人には我慢していただく」という発想が抜きがたく出てきます。
特に、自分が我慢をしている場合、相手が我慢して「いない」というのは、まあ不公平にしか見えないでしょう。
それが公正でない、何なら搾取であることは明らかです。そいつはフリーライダーで、集団のうま味を吸いながら、自分はそれに報いていないのだから。
そりゃあ、それなりの我慢はしてもらいたくなる。
で、ここからが地獄です。
「自分は菜種油を搾って捧げている」から「あなたも菜種油を搾られて捧げてほしい」という、「人間を菜種扱いする権利」の話、これはよく考えると抑圧そのものであり、人権と完全に衝突します。
「人間は、菜種油のような価値あるものの資源として、消耗して、破壊して、いつの日かゴミになったら破棄してよい」
という話を、
「人間関係や集団の運営のためには個人には我慢していただく」
という話では止めることが出来ない。
むしろ、強烈に後押しする。当たり前ですが。
「人間は、才能や効率や評価や地位に関わらず、主体であることを保障される。
つまりは、他人の道具またはゴミとして消耗・破壊・破棄される対象ではない」
という人権と、相容れ難いところがある。
だからこそ、自己犠牲精神があり、公正価値に重きを置いている人は、本当に気をつけて下さい。
そういう人は
「自分を菜種扱いするのと同様に他人を菜種扱いする権利」
という発想と極めて親和的であり、そうなったら人権思想に対して完全に敵対的になります。
***
人間関係や集団のルーチンは、生活の基盤の確保や、労力に見合う報酬などの、何らかの理由があり、それを当てにして、強制されていない自由意志に基づく同意で、初めて人権に鑑みても正当化出来ている性質のものだ。
それがないのにルーチンをやっている場合、基本的にはそれは人権とそぐわず、この2022年の「今」の日本の労働観としては不完全なのであって、そういうのをやっていってはいけない。
個人を越えた人間関係や集団が、個人の同意と関係なく、ルーチンをやるために、個人を消耗・破壊・破棄することがある。
これは、人間関係や集団や、それにまつわるルーチンとは、そういうものだからです。
個人と、人間関係や集団とは、在り方のレベルが違う。人間関係や集団のためのルーチンが、個人のためのルーチンと一致している可能性は、かなり低いと見るべきだ。
だからこそ、これらのすりあわせはきちんと行わなくてはならない。
それでもちゃんと整合的に成り立つということが、2022年の「今」あるべき日本の労働の要件になる。
1_23_7_2.想定される反論:「菜種油を吐き出せ。吐き出せないんなら死ね。これは人間関係や集団を維持するための、ルーチンの実現のためなら、正当化されて当然のことである」
「菜種油を吐き出せ。
吐き出せないんなら死ね。
これは人間関係や集団を維持するための、ルーチンの実現のためなら、正当化されて当然のことである」?
こうなったら最後だ。
そんな話にふつうの人はついていけない。付き合ったら損をするし死ぬからだ。当たり前だろう。
だから、彼らは、人を騙して拐って軟禁して働かせるようになる。これは、「強制労働」とか、「奴隷」とか、そういうカテゴリーの話だ。
恐ろしいことに、彼らはそれを、上の理屈で、引き続き正当化出来ると確信しているようなのだ。
「正当化される訳ないやろ」としか言えないのだが、どうも本人たちの中ではそれが通るようなのだ。
ヤバイし、メチャクチャ怖い。
1_23_7_3.想定される反論:「死ね、とまでは言わないが、人間関係や集団、そしてそのルーチンの都合のためなら、それ以前の個人は何もかも台無しにしてよい」
「死ね、とまでは言わないが、人間関係や集団、そしてそのルーチンの都合のためなら、それ以前の個人は何もかも台無しにしてよい」?
よく考えてほしいのだが、個人はそんなのにかかわり合いになりたくないんですよ。
だから、さっきも書いたように、避けがたい話として、人間関係や集団は、迷い込んだ不幸な個人を騙して拐って軟禁して働かせて食い物にする。という、欺瞞的で搾取的な、「邪悪な」在り方しか残らなくなる。
そんな「邪悪な」人間関係や集団、どこが正当化されるのか、何にも分からん…
それで「善い」んだな?
どこが「善い」んだ?
騙されない個人には相手にされず、騙せる個人を騙して、個人を食わせず、食い物にする人間関係や集団が、「善い」?
他になんか正当化の理由がない限り、それは端的に「邪悪」としか言えなくないか…?
他にどんな正当化の理由があるんだろうか。それが本当に、「食わせず食い物にする」という「邪悪」を上回るということを、きちんと納得の行くように説明出来るのか…?
無理なら、それは、ダメです。単純な話だ。
なぜ正しいのか説明できないし理解も出来ていないが、自分は正しいと思っている、というの、話にならない。
そもそも、話をする気がない、相手とやっていく気のない、ただのわがままなやつでしょう。
ふつうに羽交い締めにされて勝手口から蹴り出されるやつなので…
1_23_7_4.想定される反論:「人間関係や集団が維持できて、しかもメリットがあるのなら、やるべきではないか」
「人間関係や集団が維持できて、しかもメリットがあるのなら、やるべきではないか」?
そのメリット、本当に成員に還元出来ているか?
そして、成員が「これをくれるんなら働く。くれないんなら働かない」と、はっきりと口に出したか?
要するに、約束事として、きちんと成り立っているか?
そうでないのなら、その人間関係や集団は、個人を搾取していても、報いてはいない、カスを掴ませている、という話にしかならない。
1_23_7_5.想定される反論:「同意云々をやらなくても、何のペナルティもないではないか。やっても得しかしないなら、そりゃあやるに決まってる」
「同意云々をやらなくても、何のペナルティもないではないか。やっても得しかしないなら、そりゃあやるに決まってる」?
ペナルティがない…?
個人に皆殺しにされたり、明示的に法的なペナルティに訴えかけられて再起不能なレベルで人間関係や集団を解体されるリスクは、一般にものすごくえげつないペナルティなので…特に後者は今の時代ふつうにあるやつなので…
そういうの、見えてないだけで、ドボンしたらドボンしたことにしかならないし、当然、弁護士以外、だーれも助けちゃくれませんよ。
そういうのやめとけばいいのに…マジな話で。
(続く)
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