随筆(2020/8/9):公正と正義と法を、単純な直線上に並べられるが如く扱うの、納得いかない(1)まず、公正と公平=衡平と平等からして違う
1.公正と正義と法を、単純な直線上に並べられるが如く扱うの、納得いかない
(有名なヘッダのイラストですが、私はこれは綺麗事であって、綺麗事ではないガチの公正や公平=衡平や平等などの倫理と一致しないので、別の定義の方を採用する。という話をします。何だこいつ)
「公正は正義そのものであり、これを含まない法は有害」
という発言を、とあるところで見たんですよ。
公正がお好きだし、その他の価値には言及するだけの値打ちをあまり認めていない。
特に法の核心の構成要素として、公正と同じかそれ以上に大事なものとは考えていない。
こういう方、しばしば見る。
これ、私が最初に見たの、第二次世界大戦以降のヨーロッパの論者たちの主張の中でだった。(もっと遡ることももちろん出来るはずだが、まあいいや)
で、私はこれに、個人的には、かなり強い違和感があって。
そう言う記事を、今から書くんですよ。
2.「公正」には3つ(以上)の意味があり、混同されている。どれの話か明らかにして欲しい
まずは、公正の意味を明らかにしなきゃダメでは、ということを、少し思っちゃったんですよね。
ここは入り組んだ事情があって、かなり多くの人が考える「公正」とは、「公平=衡平」のことなんですよ。ここで混乱がまず1つある。
次に、「公平=衡平」は、「公正」部分と、(ある種の)「平等」部分に分けられる。
当然、「公平=衡平」と「公正」と「平等」の混同が起きる。こう言う話だ。
じゃあ、「どれの話をしているのか」と言うことは、当然明らかにしないと、こじれるに決まってる。
2.1.資源投入に対する報酬の比率が非負であることとしての「公正」
何らかの(広義の)投資を勧めることについて、「資源投入に対する報酬の比率が非負であること」を、「公正」(fairness)と呼ぶ人がいる。
ここで言う広義の投資には、「努力したら報われる」などの話も含まれている。
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もしここで損をしたとしても、損をするのはあることで、そこはそうなったら諦めるしかない。
特に、誰にも勧められた訳でもなく、自分で投資した場合は、誰のせいにも出来ない。
とは言え、その(広義の)投資を「要するに勧めてきた」人がいる場合は、そう言う人のことを、フェアとはまあ言いたくないでしょう。
「言ってることが実際と違うやんけ」と言うのは、まあかなり明確な「不誠実」の一パターンでしょう。
しかもこれで損をさせられたら、この時点で「詐欺」と思う人も当然いるでしょう。(言った人が、こちらの失った資源を横取りしているかどうかは、別の話として)
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私は間接的にしか関係ないが、年金制度にこう言うことを感じている人、割と多いだろう。
その時に思うのは、まあ、「フェアじゃない」「詐欺だ」ってことですよね。
(年金制度がこうなるのには、おそらく何らかのメカニズムが働いているのだが、その話は今回は特にはしない)
2.2.報酬の分配の比率が平等であることとしての「公平・衡平」
また、1963年発表された『Equity Theory』の中で、J.S.アダムズは人々が「投入に対する報酬の比」が「すべて一定であると感じること」を「equity」(衡平 = 公平)としており、この場合、「参加者の交換率の平等」が「公平」の本質であるということもできる。
誰かから報酬として渡される、「報酬の分配の比率が平等であること」を、「公正」と呼ぶ人がいる。
これは、上の説明だと、本来は「公平=衡平」と呼ばれるべきものだ。
しかし、真剣に考えると、「公平=衡平」においては、2つの要素が混じっていることに気付かされる。
資源投入と報酬の交換率の「公正」の話と。
今回は特に資源分配に関する「平等」の話が。
2.3.単に交換率だけ見ていても、富の再分配においては、「平等」にはならないんじゃないか
富の再分配は、しばしば、資源が足りない時の、効用(嬉しさ)の面でより良い、資源の配分として、望まれているものだ。
例えば、不景気の時の生活保護とかの場合も、そうですね。
で、そう言う状況下では、富の再分配は、広義の投資をしていようがいまいが、給付されなならん。
むしろ、投資なんか出来ない、そのくらい「持たざる」人の方が、これを欲している。
じゃあ、「資源投入をできる、した人に、給付の資格を与えて、そうでない人には給付しない」と言うの、まるで話がおかしいんだよな。
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富の再分配の時には、「たくさん持ち出して投資した人」が、「こんなの不公正だ」と言い出すんですよ。
言葉の上ではそうだが、そう言うのは、公正であるかどうかはともかく、公平とは関係ない。
実は公平の話をしている時に、公正だけの話にこだわっても、それは会話にならない。そこは状況判断して欲しい。
と言うか、
「投資で、公正でないなら、身銭を切りたくない」
と言う、それ自体はごもっともな話を、
「投資ではない、富の再分配においてすら、公正でないなら、身銭を切りたくない」
と言う話にすり替えたいんじゃないの?
それ、バカのふりをして、実はバカじゃないつもりの自分が、バカを騙そう、と言う失礼なことを考えている訳だ。
分かっている人たちからは3倍バカにされますし、何なら制裁すらありますよ。やめときゃいいのに。
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で、逆に、単に量的に平等に分配されても、納得のいかない人は結構いる。と言うの、まあ分かるでしょう。
「日頃何にも出来ないようにされている人」
「日頃何にも出来ないままにされている人」
「日頃あんまり与えられていない人」
「日頃たくさん奪われている人」
は、
「普通のそうでない人よりたくさん寄越せ。
今まで食い詰めさせておいて、食うものは同じだとか、抜け抜けと抜かすな。
ぶっちゃけ、盗人猛々しいんだよ」
と当然思う訳だ。
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だから、福祉等の社会保障制度では、しばしば累進課税制度がその一環として採用されているんだな。
累進課税制度だと、比率ではなく、累乗みたいなの(指数)が重んじられるから、これで初めて上記の人たちは納得する。と言うことがよくある。
そうなると、投資の公正は比率に影響を受けるが、「富の再分配の(場合に限っては)」平等は累乗等に影響を受ける、と言うのが、あるのではないか。
そうなると、この二つは形が違うので、うまくやらないと、噛み合わないぞ。ヤバイ…
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まあ、そんな訳で、
「公正の話をしているのか、統合的な公平=衡平の話をしているのか、平等の話をしているのか。
そして、その平等は、量的平等なのか、比率的平等なのか、指数的な格差の開きを指数的な累進課税で取り戻す、指数的格差是正なのか。
そこらへんは、はっきりしなさいよ」
と言う話は、避けられない。この話はこれから後でも少し出て来るところです。
(と言うことで続きます)