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随筆(2022/8/6):脳に知識の船着場を作ることが勉強や教育の意義ではないか

0.ヘッダの写真の出典

(ヘッダの写真は、国土交通省北陸地方整備局金沢港湾・空港整備事務所のサイトにおける、私の地元である石川県金沢市の大船着場、金沢港のものです。
出典を書いておきますが、何か問題があったら対処します)

1.『知識の船着場』モデルというもの

ここ数か月、独学について考えた時に、『知識の船着場』モデルというものに思い至ったのです。

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外界が荒波渦巻く大海原で、情報とは黒船で、人の脳が港だとします。
すると、最初は貧弱な知識の船着場を作らざるをえないし、それが全てに優先される訳です。
そうしないと少しも発展できないんだから。

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そもそも、目的のことをいうと、脳は港なんだから、船(膨大な情報)を受け止めて荷物(使える知識)を積み出せなければ困るのです。
それが出来ない港は、港としては使い物にならないので、要するに死に地になって寂れて、最悪滅ぶことになります。

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例えば、積荷の中にはしばしば「何らかの問題の解と答」も含まれているのです。
これを受け止められる態勢が整っていない、つまりは分からない場合が、当然あり得ます。
そうなるとどうなるか。
困った事態が起きた時に、誰かが善意で有難くも解や答を示してくれても、受け手の側は受け付けられないので見逃し、問題はそのまま残っているので解決できずに苦しみ続ける。ということがふつうにあり得ます。

2.なぜ「自分の脳に」知識の船着場を作らなければならないのか

そんな訳で、
「解と答さえもらえればうまくいく」
というものではなく、
「それを自分が道具として扱えるようにする」
そして
「道具を使って実際にやっていく」
ということが非常に大事になってきます。

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もちろん誰かにやってもらえばいいことも多々ありますが、それには
「問題の所在を明示して、それなりの対価を払う」
ことが必要になります。

対価が払えない場合、自分の信頼を消耗することになります。
それでもやってもらえることはもちろんありますが、信頼を使い果たしたら、今度こそもうやってもらえなくなりますし、その頃にはもはや新たな問題に手も足も出なくなっていることでしょう。

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対価を払うにも、信頼を積み重ねるにも、
「こいつは自力である程度問題を解決できる」
という能力は必要になります。

それは
「してもらったから、相手のためにする」
という直接の決済手段になることがあります。
これで「対価を払った」というのとほぼ同じ意味があります。

そうでなくてもこれをすることで金という形で報酬がもらえるので、この報酬を決済手段として使えば良いのです(ビジネスではこちらの方がふつうでしょう)。

だから、非常に多くの場合、自分でできねばなりません。
そのためには、やはり、自分の脳に知識の船着場を作る必要があります。

3.基礎論をやる前に、まずは初等教育をやる。それはなぜか

ごく初期の、ほとんど何もない、荒れ果てた湾岸みたいな脳に、知識の船着場を構築するからには、脳の向き不向きに適合した勉強で構築せねばならないのです。
理想的な立派な船着場である学問と、荒れ果てた湾岸である人間の子供の脳との間には、当然かなり大きな開きがあります。
これを埋めるために頑張らねばならない、というのが、勉強や教育の意義の、それもかなり大事な側面でしょう。
そして、人間の子供の脳に、いきなり理想的な立派な船着場を構築することはできないのです。
構築のためにうんざりするほど時間のかかる立派な船着場より、まずはとにかく荷物を積み出せる、その人にとって直ちに使い物になる、貧弱な船着場が必要とされます。
初等教育とはそういうことであるべきです。
それをみっともないと言う人、港というものをナメている。

4.いきなり基礎論の黒船を送り込むと、座礁しかしないし、港としては無残な船の墓場になる

いきなり基礎論からやろうとする人は、基礎論が人間の子供の脳に、そして日常に出てくるさまざまな知識に、ただちに適合するかどうか、考えてみた方がよいでしょう。

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数学で言うと、基礎概念の一つである集合を、子供にもおなじみの数に関連付けるためだけに、かなり長い説明が必要になります。
この話は少し前の私のキューネン本記事で延々とやったところですし、
「これを延々と真面目にやってたら、そりゃあ子供は数学基礎論というものを窓から投げ捨てるだろう」
と自分ですら思います。(じゃあ何であんな記事を延々と書いたのだ?)

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かなり間接的な関係しかないものを、わざわざ覚えていてやる理由が、子供の側にはない。
直ちに使う訳じゃないんだから、こんなものは当たり前だ。
脳のリソースの無駄と判断されてしまうし、そうでないということの証を、教えている大人が示せていない。それではダメでしょう。
上の話でいうと、教える側の教育能力に、何の信頼もないから、教えをまともに聞いてもらえない。そういうことです。

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初等教育による船着場の構築を忌み嫌って、基礎論「から」やることに傾倒するのは、黒船がひたすら腹で港に突っ込むようなものです。
当然、脳の港は、挫折の度に座礁した黒船に埋め尽くされて使い物にならなくなる訳です。港としては無残な船の墓場になる。
立地条件を完全無視したせいで失敗しまくってるなら、そりゃあ評価される訳がないんだよな。

5.初等教育でざっくりととっかかりが出来たら、その後で基礎論を、そしてそれから各分野をやらねばならない

もちろん、学問そのものにおいては基礎論は大事だし、これをやることでその後の各分野の理解が揺ぎ無くなるのです。
なので、初等教育の積み重ねで、ざっくりと基礎論へのとっかかりが出来たら、その後で基礎論はやらねばならないのです。
そしてそこから各分野に挑戦していけばよい。これで揺ぎ無い理解ができるだろう。
それは理想的な立派な船着場を作る工程そのものです。

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だから、ちゃんと、初等教育からやって、そこからできるだけ「基礎」に近いやつに挑戦して、そこから「各分野」を補強していった方がいいんだよな。
変な話ですが、小学校や中学校や高校の教科書を、ちゃんと買って、ちゃんと読めるようにしないといけないんだよな。
独学をやる以上、いつかは「子供の教科書が全部読めるか」というところまで、ちゃんと立ち返らなきゃならん。
いつかは頑張ろう…

(いじょうです)

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