創作メモ(2020/6/22):作品にビターなテイストや地味な整合性を持ちこむ悪癖が俺にある
思うところあって、昔の自作小説や、他の方のまだ読めてない作品を読んでいたんですよ。
んで、分かったことがあり、「作品にビターなテイストや地味な整合性を持ちこむ悪癖が俺にある」ということです。
ビターなテイストや地味な整合性を万人が好む訳ではなく、これを入れた時点で「そういう味」になるし、好事家しか食わなくなる。
「そういう好事家の好む味付けを、自分も好むから、やる」のはまあいいが、「好事家しか食わなくなったことに文句を言いたくなる」のは、それは無理な話でしょう。
***
ビターなテイストや地味な整合性を好むのは、たいていそういうある種のリアル志向のためです。
リアル志向しか認めない人、かなりいるのですが、これ、『小説神髄』で写実主義を主張し、戯作や勧善懲悪を否定した、坪内雄蔵、号して坪内逍遙のゾンビですからね。
これが刊行されたの、1885-1886というから、もう1世紀跨いだ過去の遺物ですよ。
だから、そういうこと言うと、そういうのにうんざりしてその後のシーンを創った人たちや、その流れを知っている人たちに、完全に指差して笑われてしまいます。
気を付けねばなりませんね。
***
というか、もし、ビターなテイストや、地味な整合性が、戯作的なところに由来するのなら、じゃあ写実主義と戯作のどちらに寄せたいのか、立ち止まって考えてみた方がいいですよ。
最悪、超昔のアリストテレスが『詩学』で既に言ったことを、今さら掘るのと同じくらい、猛烈に非効率的な営みになってしまいます。
そんな感じですね。
(いじょうです)
いいなと思ったら応援しよう!
応援下さいまして、誠に有難うございます! 皆様のご厚志・ご祝儀は、新しい記事や自作wikiや自作小説用のための、科学啓蒙書などの資料を購入する際に、大事に使わせて頂きます。