像とY字路/書評

像とY字路  小川三郎

 現代を生きる私達にとって、とてつもなく希薄な『今』という時間。当たり前の日常と当たり前の生活の中で薄まっていく時間という感覚、今生きているという感覚。しかし『今』を生きていかなければいけないという矛盾に、詩人は悩んでいる。漂白されていく現代人としての時間を、当たり前のこととして受け取り目を瞑れば簡単だが、詩を書くものとしてそれはできないのだ。

 小川三郎が二〇一二年に発表した『像とY字路』は、「生活」と「日常」の中で淡々と『今』を見つめるまなざしがあった。沢山の流れの中にじっと身を置き、静かな観察眼で丁寧にひとつひとつを書き出す作者の心があった。暴き出すということでは決してなく、静かな強い思いが詰まった一冊の詩集が私の手元にあった。

 この詩編に納められた二十余りの詩は、三一一以降に発表されたものが多く、日本人の「生活」と「日常」、つまりは『今』という希薄な時間が根本的に崩れ去っていくような、ぐるぐると蠢く荒波の中で生まれた。表題作の「Y字路」は二〇一一年九月に発表された詩で、その中の一節をひいてみる。

  道が分かれていたのなら

  その間に建っている家に住みなさいと

  そのように言って母は死んだので

 母の教え通りY字路の間に建つ家に住み、分かれ道にやってくる様々な人を上から見下ろしている〈私〉。しかし皆、そんな私を妄想だと思ってこちらを見もしない。妄想だと思われ他人から認識されない〈私〉は、もはやそこに存在せず、人々の「生活」と「日常」を外から眺めてる傍観者である。通常の時間軸には存在しない作者の眼である。

  どちらか選んで先に進む。

  そのたび

  分かれ道が少し歪む。

 小川三郎の詩に一貫して流れる〈非現代的〉な時間感覚と〈静かな眼差し〉がここには流れていて〈右か左かどちらかを選ばなければいけない〉〈曖昧な選択肢はない〉という人々の日常は暴力的だ。どちらかを選び切り捨てていくことで、間にたつ〈私〉の家が、〈分かれ道〉が、歪んでしまう。灰色の殺伐とした風景が流れる分かれ道には花も咲いていなければ猫や犬、虫だっていないだろう。間にたつ〈私〉はこうも言っている。

  無理に選択などしないで

  一緒にここに住めばいいのに

  そう呼びかけても

  誰もそうせず

 右か左のどちらかではなくその間という可能性を提示するのに、妄想だと思われている〈私〉という存在のせいで、第三の選択肢すらないと思われてしまう。

 しかし小川三郎はこの詩の最後をこう結ぶ。

 歪むだけ歪めば平和をもたらす

 そんなことも

 あるかもしれない

 三一一以降、私たちはありとあらゆるものを切り捨て、選んでいかなければならなくなった。その中で人と人の沢山の反発・衝突があった。日常・生活を外から眺めるここには存在しない、曖昧な〈私〉が、そんな光景を眺めながら願いを込めたように吐き出された希望の一端に、胸を掴まれざるを得ない。

 漂白され薄まった『今』という感覚に、現代人の感覚とは違う角度から『今』を見つめようとする作者の眼差しがぶつかったときに、この詩集はできたのではないだろうか。

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