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持ってる安部公房全部読む ー飢餓同盟ー

最近、noteで日記を書き始めた。別に私の日常なんて誰も興味がないだろうが、日記は何かを書きたい欲を満たすのにちょうど良いことに気付いた。調べてみると、日記を書くことは、文章力の向上にも繋がるらしい。長さや内容に差は出るだろうが、今月は出来るだけ書きたいと思う。本の話と食べ物の話くらいしかしないだろうけど。そんな今は、クンデラの存在の耐えられない軽さを読んでいる。みんな誰かを好きで、愛人がいたりする。一つのことを終わらせてから次にいけばいいのにと思いながら読んでいる。で、好きって何なんだろうね。誰か私に教えて欲しい。或いは一緒に考えて欲しい。でもとりあえず今は安部公房の話をしよう。


2022年11月27日。飢餓同盟を読了。読み終わって、なんてアイロニーにまみれた話なのだろうと思った。主人公は、町の権力者たちに対しての革命を企てる。革命というよりは、自分たちを押さえつけた権力社会に対する復讐と言った方が適切かも知れない。それを企てるのが”ひもじい”同盟(後の飢餓同盟である)。”ひもじい"同盟の目的は、ある人間に薬を飲ませて”人間探知機”として利用し、温泉の地下水脈を探り当て、それを利用した地熱発電を成功させることによって町の権力を握り、自分たちのユートピアを作り上げる。そして町を牛耳る権力者たちに一泡吹かせようという物語だ。


だがそれは権力者たちに横取りされ、結局は復讐をしようとしていた相手の力と金がなければ、何も出来ないという皮肉。ここで作中の「まったく、現実ほど、非現実なものはない」という台詞が痛烈に効いてくる。自分が思い描いていたユートピア。当たり前のことだが、それは実現しなければ現実のものにはならず、ずっと自分の頭の中にある、非現実のものでしかない。私は常々「自分の頭の中にしかないものは、外に出さなければないのと一緒」だと思っている。だからこの一節を読んだ時、これだ!!と思った。
勿論、頭の中から出していいことと悪いことはあるが、実際に頭の外に現れなければ、それは現実のものにはならない。主人公は自分にとってのユートピアを思い描いていたのだが、そうはならなかった。実現することはなかった。
そしてユートピアとディストピアは表裏一体で、それはいつどちらに転んでもおかしくはない。昨日までは良かったものが、ある日突然良くないものに変わる。だけどそれは、声が大きい(権力を持った)側からの解釈が正しいものになってしまうことを忘れてはいけない。


また、作中で「町全体が大きな病棟のようなところ」という言葉が出てくる。作中に出てくる誰も彼も、生と自分の野望に取り憑かれた病人のようであった。だけど物語の外にいる私も、一種の病人の様だとも思った。野望とまではいかないが、ある事柄に取り憑かれてしまって「もうどうにもならないし、本当にどうしようもないな」と自分で自分に呆れ返り、心底嫌になる。自分をフルスイングでぶん殴って、それについてのことを全て忘れてしまいたいと思うこともある。でも実際には自分をぶん殴ったところで忘れることは出来ないし、上手く付き合っていくしかない。そういう自覚があるだけ、まだマシと思うしかないんだろう。


一番まともだったのが、薬を飲まされて人間探知機にされてしまった織木という青年だけだったのが、これまた皮肉なものだった。


飢餓同盟/安部公房(新潮社)

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