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持ってる安部公房全部読む ー他人の顔ー

今年の夏は暑い。こんな時は涼しい部屋で本を読む貪るように読んだり、何か好きなことをして過ごすのがいい。という訳で残り19冊分このまま書いていきたいと思う。私は文学部を出ている訳ではないし、もちろん安部公房の専門家ではない。ただ好きで読んだだけだし、ただの一個人の解釈と感想である。にも関わらず、色んな人に読んでもらえたみたいでとても嬉しい。これで誰か一人でもいいから興味を持って安部公房を読んでくれたら、頑張ってキーボードを叩いた甲斐がある。
これを書いている今は、読書会のためにアレクサンドリア四重奏と、これまた読書会のために村上春樹の短編を2つ、あとはムーミンを読んでいる。私の中で、ムーミンは大人向け童話のカテゴリに入る。スニフ〜!と思って読んでいると、急にグサリとささる言葉が目に入ってくる。ムーミンのあのフォルムに決して油断してはならない、ふいを突かれてしまう。因みにムーミンに出てくるニョロニョロには足が生えていることを知っているだろうか。その小さな足で、あちこちへとカサカサと動き回る。そして雷が鳴ると帯電し、触ると感電してしまうのだ。あの見た目で結構危ないやつである。


さて2022年10月23日、他人の顔を読む。これを読んでいた頃、一日一編として大江健三郎を読みまくっていた。大江健三郎を読み、終われば安部公房を読む。読書的には贅沢な日々だった。他人の顔は、事故によって自分の顔を失ってしまった男が、それと同時に失った妻の愛を取り戻すために自分ではない誰か”他人の顔”を仮面に仕立てて被り、別人として妻を誘惑する、という話である。
顔、というのは自分以外の他人を識別するための分かりやすい記号で、立派なアイデンティティの一つである。話は3冊のノートを軸に進む。男は当初「顔が幾つになろうと、ぼくがぼくであることに、なんの変わりもないはずだ。ただ、ちょっとした《仮面劇》で、開きすぎた人生の幕間を、埋めてみようというだけのことである。」と言い、顔とは別のところにアイデンティティを見出していた。だがそのうちに顔に囚われていき、次第にノートは失った顔への執着と、妻の愛を失ったことによる孤独に埋め尽くされていく。


以前、ある人と顔の造形について話していた際に「事故で顔が変わってしまうこともあるんだから、そこに重要性は見出さない。他に大事なことがあると思う」と聞いた。私はその時点でこの本は未読だったので「一理あるかも知れない」としか感じなかった。
だけど今なら思う。私は分かりやすい記号である自分の顔を失った時、絶対にそうは思えない。例え親しい人がそう言ってくれて、変わりなく接してくれたとしても。私は勿論ナルシストではないし、造形が整っているかどうかは置いておくとして、私は自分の顔に対してそこそこの愛着を持っているのである。当たり前のことだけど、今までずっと一緒に過ごして来たのだから。まぁシミがあるのが気になるとか、もう少し睫毛が長かったらいいのにとか、そういうことくらいは思うけど。そんな愛着のある顔を失った時、私はきっと自分の顔に執着するのだろうと思う。何らかの手段で顔を取り戻したとしても、それは元の自分の顔ではない、限りなく近付けられたとしても100%元の自分の顔ではない。そしてアイデンティティを見失い、段々と元の自分ではない、自分によく似た別の誰かになっていく。そういう意味では、私もこの男と同じなのかも知れない。私は時々、自分は何もないと思うことがある。私が考えていることは私が思い付くくらいだから、きっと他の誰かも思い付くくらいのことだろう。そういう意味も含め、自分は何もないと感じることがある。だから他人と識別する記号をなくした時、残った人間とその思考、果たしてそれは”私”と言えるのだろうか、と読みながらそんな怖さを感じた。私って一体何なんだろう。


さて、他人の顔を手に入れた男は、妻の愛を取り戻すことが出来たのか。最後の最後に男が気付いたことが、更に彼の孤独と物語の切なさを浮き彫りにする。因みにこの文庫版の解説は大江健三郎が書いている。大江健三郎全小説も併読中だったことも相まって、私としては何とも贅沢な読書期間であった。

他人の顔/安部公房(新潮社)

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