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持ってる安部公房全部読む ーけものたちは故郷をめざすー

段々と寒くなってきた。北では雪虫が多かったり、南ではカメムシが多かったり。今年の冬はどうなるのだろうか。雪が多いと通勤が大変だから、出来ればあまり降らないで欲しい。今回は、厳しい寒さの中の安部公房作品。

2023年6月19日、けものたちは故郷をめざすを読んだ。この本は満洲国で育った少年が、ソ連軍の侵攻により崩壊寸前のそこからまだ見たことのない故郷・日本をめざす冒険、というには過酷すぎる道のりを謎の同行者と歩む話だ。これは戦争小説として読んでも非常に面白く、飢えと厳しい寒さの恐怖に苛まれて人が段々と狂っていく様がリアルで怖かった。


腸詰の切れ端が逃げてしまうとでも言うように、少年は必死で食べる。食欲がなければ食べなくてもいいのに、飢えがそれを許さない。それは飢えそのものよりも、飢えに対する恐怖であったのだろうか、という記述。そして口いっぱいに溜まった唾液を飲み込んだその音が思ったよりも大きくて、それにより身近にせまった飢えへの目も眩むほどの恐怖に襲われる。干からびた枯れ草を僅かなマッチで燃やし暖を取ろうとするが、それも長く続かない。道中の小屋の中で死んでいた人の残した物を食べ、サイダーを飲んで咽せる。それを見た同行者が大声で笑うが、滅入った気分は和らぐことはない。それどころか少年には感情そのものが重荷になってくる。そして過酷な寒さの中でめざす故郷、まだ見ぬその地への渇望と希望は、やがて絶望へ変わっていく。


ほんの少しの希望すらも直ぐに打ち砕かれ、最早それを持つことすら絶望である。もうどうしようもない。飢えと寒さの終わりは見えず、明日の朝日を見ることが出来る保証もない絶望の中では、ヒトも何もかも等しくけものになるしかないのだろう。少年と同行者を狙う野犬も、少年たち自身も。



この辺のリアルさは、安部公房自身が経験した満州からの引き揚げが大きく関わっているのだろう。敗戦が近いらしいと聞いた安部公房は日本をめざす最中、行く先々で占領軍から家を追われて市内を移動し、サイダーを製造して金を儲け、年の暮れにようやく引き揚げ船に乗り込めたそうだ。この少年も敗戦前夜に冒険に出た。読んでいる間中、若き日の飢えや寒さに苛まれる安部公房が私の中にいた。国際的な政治問題に巻き込まれた安部公房と少年。この本は、ある意味における安部公房の自伝的要素があると思う。


占領軍に追われながら故郷をめざした若き日の安部公房。まだ見ぬ故郷をめざした少年。読んでいる最中、私は彼らがめざす故郷の中に見たものは何なのだろうかと考えていた。それは多分、自由だったのではないだろうか。その自由とは、肉体的自由は勿論だか、何よりも”誰からも縛られることのない精神的自由”だったのではないだろうか。戦時中ということもあるが、そこでは制約が多かっただろう。だが故郷では何にも縛られることもなく自由な思想を持つことが出来る、彼らはきっとそう思ったのではないだろうか。この故郷をめざす道のりは、自分の自由を手に入れるための道のりだったのではないだろうか。


安部公房は無事に故郷へたどり着いた。だが少年はどうだろうか。作中では言及されない。もしかしたら日本へたどり着きはしたかも知れないが、精神の自由は手に入れられなかったのではないか、彼は”けもの”のままだったのではないだろうか。それは、最後の2頁で彼が語ることから感じられると思う。これは是非、自分の目で確かめてもらいたいと思う。


けものたちは故郷をめざす/安部公房(新潮社)

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