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誰かを愛するということ

 自分自身と向き合いはじめて早五年。そろそろ着手しなければいけないなと思いつつ、中々手をつけられなかった課題がある。それは「恋愛」の問題である。いつか結婚をしたいとか、可能であれば子供が欲しいなんてことを、頭の片隅で感じていることはずっとわかっていたけれど、それに辿り着くまでに越えなくてはいけない壁が山ほどある。それは、自分自身の恐れ。
 私は恋愛経験がないわけではない。けれど、数多くないそれらは散々なものだ。今よりも若かった頃の私は、ネガティブで不安定で、強い自己否定感を抱えて生きていたのだから当然。私は沢山傷つけられたし、私も相手を沢山傷つけたし、そして、つける必要のない傷を、自ら沢山つけ続けていたように思う。いつしか無気力になって「恋をしても苦しむだけ」「恋愛なんてしたくない」と、逃げるようになってしまって、気づけば十年近く、ひとりぼっちでいる。
 個人的な心の問題や、家族や職場などにおける対人関係の問題を、ひとつずつ丁寧に紐解いて手放して、片付いた部屋の中にあるのは、もう隠すことのできない課題。「誰かを愛する」と、いうこと。

 自分の問題を乗り越えてからは、相手の魅力に気づくと、その瞬間にその人の全てを好きになるようになった。良い声だとか、話が面白いとか、優しい一面や、いつも笑顔だとか。時々「一回でもこの人無理だなと思ったら、そこから全部無理になる」みたいなことを言う人がいるけれど、私の場合は逆。知らない時こそ無関心だけれど、その人の魅力を知ってしまった瞬間に、その人を好きになる。しかしこれは、すぐに恋に落ちてしまうというわけではなくて、心の中に「好きの種」がばら撒かれる感覚、といった方がわかりやすいかもしれない。その人との交流が深まれば深まるほど、種に水が撒かれて、光が差して、養分が与えられる。だから私の中には豊かな植物たちが萌えているのだけど、恐れが邪魔をして、随分長いこと、花や実は咲かせないようにしていた。
 すぐに嫉妬してしまうし、不安になる。そういった感情に支配されてナーバスになって、泣き出したり、怒りをぶつけてしまったり。そういう私になるのは、とても怖い。それに、その逆もそう。頭の中で都合のいいストーリーを作り出して、浮足立って、調子に乗って、万能感に支配されて、目の前にあるやるべきことをおざなりにしてしまうのも、同じくらい怖い。心でも体でも、近づくことでつけあってしまう傷が怖い。私の中にある過去の恋愛の中に、美しい情景なんて一切ないのかもしれない。けど、これらを越えられたらきっと、私はもう一歩先にいける。

 今、好きな人がいる。その人のことを何も知らないのに、好きにならずにはいられなかった、そんな人がいる。子供の頃の感覚に近いなと思う。大人になると恋愛感情にくっついてきてしまう、付き合うとか、デートするとか、セックスするとか、結婚するとか、そういうのなしに、ただただ「好きだな」と思う人がいる。ずっと咲かせないようにしていた心の中の植物たちに、お花が咲くように許可したのは紛れもない私自身だけれど、でも、その機会を与えたのは私ではない。
 心理学の勉強をはじめたことで、恋愛にも応用できる知識が豊富になった。ネームコーリングとか類似性の法則とか、単純接触効果とかを頭の中に反芻して、でもこれらを実践しなくては、行動に移さなくては、恋愛としての体験を得ることができないと葛藤したのだけれど、それを堰き止めていたのは「女性としての自己肯定感」が関係しているのだなぁなんて、気づきを得たりもした。

 これは単純な恋愛記事ではなく、自己成長とか、変化とか、新しい挑戦の話として、ここに言葉をしたためている。正直まだ上手く整理できてなくて、睡眠不足だし、ご飯も全然食べられていない。けれど、つらいけれど、とても豊かな気持ちでなのだ。夢見心地で浮足立っているわけではなく、しっかりと地に足を着けて幸せを噛みしめている。誰かを愛するという喜びを、思い出させてくれた人に出会えたことが、ただただ、喜ばしい。

 とはいえまだスタートラインに立った程度のこと。気持ちを伝えるのか、伝えたとしてその後どうしたいのかなんてことは、一切考えられていない。ただ、感謝の言葉だけは表現しなくてはならないなぁと思っている。もし彼に恋人がいたとしても、私に関心がなかったとしても、私の内側にある感謝の思いが、損なわれることはないのだから。

八月二十二日 戸部井