共同体感覚について考える
アドラー心理学における「共同体感覚」について。
私の父はADHDの傾向が強い。その上、認知症の症状が現れている。私にとっての祖母、父にとって母は、心身を喪失し常に情緒不安定で、しつけと表して虐待行為を繰り返す人だった。父は愛着障害でもあった。その父が、ここ数年不可解な行動を取るようになっている。話を聞いてみれば「自分一人で頑張らなきゃ」という言葉を何度も口にしていて、私は胸が痛くなった。
彼には共同体感覚がない。心の繋がりを感じられていないのだ。目の前にいる家族にも頼れずに抱え込んで、次々に問題を増やしているようだった。
共同体感覚とは、他者との繋がりや社会との繋がりを意味している。ただ「属している」とか「関係がある」ということではなく、心理上の安心や安全を他者や社会に見出し、心より信頼している、という意味だ。この傾向が弱い人ほど、外の世界を信用できずに懐疑的になり、奪い合いをしたり、内にこもったりしてしまうのである。共同体感覚は幼少期に培われる心の課題であり、そこには養育環境が大きく関わっている。養育者との間に適切な愛着関係を育めた者は「この世界は安全で、頼ることができる」というメッセージを受け取れるが、養育者に何かしらの困難がありそれを受け取ることができないと「この世界は危険で、頼ることはできない」というメッセージとなってしまう。
道端に落ちているゴミや、壁の落書き。みんなで食べるように買ってきたお菓子を、一人で何個も食べてしまう人。電車内の迷惑行為や、深夜に騒ぐ人たち。誹謗中傷の書き込み、ブラック企業、通り魔事件。そして、世界中で今も続いている戦争。これらは全部、ひとりひとりの共同体感覚の欠如から起きている。相手を慮る心が育たなかった人たちの行い。この世界にはどこへいってもそれが溢れている。だから今も、怒りや悲しみの声が消えない。
共同体感覚の中心には、まず「自分」がいる。これは自分勝手に振舞うということではなく、適切な自尊感情を持つことを示している。自分には良い部分も悪い部分もあり、そのどちらも受け入れて認めているということ。あるがままの自分に価値や美しさを見出せるということ。不当に利用しようとする者や、弱みにつけこみ陥れようとする者からは、反撃することなく距離を置けるということ。愛される許可、受け取る許可を、自分自身に与えられるということ。そして、自分を否定しない。それが中心にある。
その次に、身近な人の存在が現れる。家族や親友、恋人。ビジネス上の重要なパートナーが含まれる人もいるかもしれない。自分自身を認め、慈しんだように、それらの人達のことも、認め、慈しむ。そして彼らにも、自分と同じように大切な家族や友人、パートナーがいて、そしてその先にも、そのもっと先にも、認め、慈しむべき人達がいると受け入れる。自分の近所だけではなく、地域を広げて、都道府県から国に広がって、その思いを広げる。
この世界の全ての人には良い部分も悪い部分もあり、そのどちらも受け入れて認めているということ。あるがままの私達に価値や美しさを見出せるということ。不当に利用しようとする者や、弱みにつけこみ陥れようとする者からは、反撃することなく距離を置けるということ。愛される許可、受け取る許可を、私達自身に与えられるということ。そして、私達を否定しない。それが共同体感覚である。
高齢の父にそんな話をしても伝わらない。それはしょうがないことだ。誰にも教えてもらえなかったことで、きっと彼は七十年以上、心の安心を得られずに一人で生きてきたのだから。悲しいが、その不安を取り除くことは私にはできないけれど、ただ「この世界は安全で、頼ることができる」というメッセージを、父を含む、多くの人に届けられるように在ることが、今の私にできることだと感じている。
六月二十九日 戸部井