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タイプ4から見たタイプ4

私はエニアグラムの「タイプ4」であるが、「自分以外のタイプ4」を見定めることが得意ではなかった。芸能人や架空のキャラクターなどにおけるタイプ4については、俯瞰した視点で観察や判断をしていたが、日常生活で出会う「恐らくタイプ4である人間」に対しては、これといった判断材料、決め手を持ち合わせていなかったのだ。4以外のタイプであれば、おおよそのパターンを把握し、話し方や言葉選び、様々な場面における反応や態度、表情や仕草から該当者のエニアグラムタイプを推理することができ、その上で考察や検証を重ねていたのだが、タイプ4に限ってはその材料をほとんど持ち合わせていなかった。

明言化されているクリエイティブな一面だけで「あの人はタイプ4だ」と決定するのは、あまりにも安直で、想像力や思考力が鍛えられていないという自己紹介でしかない。絵を描く人間や楽器を演奏する人間、プロのデザイナーやダンサーを皆総じて「タイプ4だ」とするのは相当にして安易である。タイプ5の歌手やタイプ8の画家だっている。あくまでも「タイプ4の可能性はあるか」と推察するに留めておくべきだと私は思う。
更に言えることとしては、すべてのタイプ4が創作活動や芸術表現をしているとは限らない、ということだ。タイプ4が「アーティスト」といわれるのは、個性的な作品を生み出すからではなく、「独自の美意識を持ち合わせているから」である。その美意識の落としどころが、各々が望む方法によって表現されているだけなのだ。ある人は絵筆を持ち風景画を描くかもしれないし、ある人は言葉の並びに美を見出し、詩や小説を書くかもしれない。洋服や靴、髪型でそれを表現する人もいるかもしれないし、インテリアやデスクの配置、文房具や書類の整頓で美意識を開花させる者もいるだろう。
これらのことから言えるのは、「記号化されたタイプ4」は、あくまでもそれの一部分でしかなく、全体を把握するのは不足している、ということだ。

私が、日常で出会うタイプ4を上手く掴み取れていなかったのは、「自分と同じタイプ4の人間であってほしくない」といった、甚だ幼稚な自意識が存在していたからだ。自分自身の感情が対象をジャッジしてしまい、その姿を実直に見つめることができない。これはひとえに、タイプ4である自分自身に対してもそうだったように思う。
エニアグラムと出会って四年近くが経つが、ここ最近でようやく「この人はタイプ4かもしれない」と、考える余地が生まれていることに気づいた。その相手がタイプ4ではなかったとしても、そもそものアプローチをかけることすらできなかった過去を思えば、相当な躍進である。
四年も経ち、なぜ今になって「他者であるタイプ4」を見定めることができるようになったのかといえば、私自身が「タイプ4と同一化する」ということを、いつの間にかやめていたからだと思う。
エニアグラムという入口から自分自身を客観視できるようになって、「この世界には、私と同じ孤独を抱えている人間がいる」という事実に、心に空いていた大きな穴が満たされていく思いだったことを、今でも鮮明に覚えている。それ以来私は、タイプ4の人間に対して「同じ視点を共有できる同志であってほしい」という、願望に近いエゴを抱え込むようになったのである。そのせいか、自分にとって不都合な印象を与える者に対しては「タイプ4はこういうことをしない」「4であればこんな態度は見せない」といった、希望的観測で他者を判断するといった事態を、度々招くこととなったのだ。

最近出会ったとある女性は、恐らくタイプ4である。彼女はとても達観していて、自分自身の世界を持ち、仕事やプライベートに自らの美学を見出している。神経質傾向がやや高く、外向性と誠実性がやや低い。調和性は高そうに思えたが、それは上辺だけのようだ。また、開放性に至っては判断しかねている。
彼女は几帳面な一面もあるが、それはタイプ1ほど厳しくはないし、タイプ2のように差し入れを持ってくることもあるが、他者へのサポートにはさほど関心がなさそうだ。タイプ3ほどの野心はなく、タイプ6ほどの協調性もない。楽天的なところは見て取れないのでタイプ7ではなさそうだし、タイプ8のような統率や支配を思わせることもない。辛辣な意見を口にする姿からはタイプ9を感じさせず、また、自分自身を受け入れてもらおうと多くを語りたがる姿勢からは、タイプ5を感じさせない。

そして彼女は、よく不満を口にする。それはウィットに富み、ブラックユーモアや毒舌といった印象を抱かせるのだが、それらが孕む憂いは「自己効力感の低さ」を思わせる。仕事での不遇や環境の変化がもたらす不調和、天候や気温に恵まれない、食事の量が適さない、厄介な人間が苦しみをもたらす、といった日々繰り返される様々な苦痛を、日常会話に織り交ぜて、彼女はしきりに語りたがる。彼女の周囲には常に「悲劇」や「痛み」があり、喜びや幸福を語ることは非常に稀だ。それらはエニアグラムと出会う前の、過去の私の在り方を想起させる。恐らくこれが「通常のタイプ4」そして「タイプ4の特徴」なのだと考えられる。
彼女は私と接する度に、何かしらの手段でマウントを取ろうとしてくる。悲しいが、これも過去の私が繰り返していたことである。「自己肯定感が低い」のだ。自分の価値がないように感じられ、敗北感を味わうのを恐れ、他者よりも秀でた部分を過剰にアピールしたがる。これは彼女にとって私が「脅威」であることを示している。常に明るく前向きで、何事に対しても楽観的。それでいて冷静で様々な知識や経験を持つ私を、彼女は恐れている。それが手に取るように分かる。なぜならば、過去の私がそうであったからだ。不健全だった頃の私は、自己肯定感が高く意欲的な人間の隣にいると、自分自身の心の影が強調され、劣等感が丸裸にされた気分になり、落ち着かなかったのだから。
これらのことから私は、彼女のことを「タイプ4ではないだろうか」と、考え始めることとなる。今までの私なら目を背けていたであろう、憂慮すべきタイプ4の態度を目の当たりにしても、自らの羞恥心を刺激しなくなるほどには、私はもう、タイプ4と同一化することがくなっていたのだ。

タイプ4と思われる彼女は、様々なことを教えてくれる。時折見せる演技のような仕草は、彼女の内にある「理想とする自己像」の一種でしかなく、本質はそうでないことを裏付けている。クールさや知的さを装うこともあるが、自分にとって居心地の悪い場面では子供っぽく不機嫌になる。はっきりとした無邪気な物言いも、達観した悟りの視点も、タイプ4らしい特徴といえそうだ。冷たくきつい印象も与える彼女だが、それでいてどこか自信がなさそうで、消極的で、可哀想な印象さえも抱かせる。そして彼女は、よく愛想笑いをする。これは「嫌われたくない」「愛されたい」といったハートセンターならではの心の動きであると、考えることもできる。
彼女は恐らく「この人には自分を理解してもらえないだろう」と、考えているし、「私を理解できる人間はここにはいない」と考えている。私に対しても「自分とは違う人間だ」と、一線を引かれているのがよくわかる。見てもらいたい、共有したい、繋がりを感じたいと思いつつも、半ばそれを諦め、しかし行動せずにはいられず、「そっぽを向いたら気にかけてほしい」「逃げ出したら追いかけてきてほしい」といった、複雑で曖昧な感情を内側に閉じ込めているのがよくわかる。鬱屈としたそれらはあるタイミングで放出され、被弾した者を疲弊させ、愛されることや受け入れてもらうことを自ら遠ざける。よく知っているパターンだ。何十年もの間、私が親しくしていた、自らを滅ぼす苦悩の連鎖である。

ずっと得られなかった「タイプ4を客観視する」ということを、こうしてようやく達成することができたのは、自分の心の傷や恥の感覚が癒えたことを証明しているのだと感じる。タイプ4が持ち合わせる懸念を明るみにしても、自分の胸が痛むことはなく、過去の苦痛を想起することもなく、ただただ事実を事実として受け止め、それでいて慈しみの念を持って、あるがままの「タイプ4」を見つめることができるようになったのだ。そして、他者の中にある課題を認識しても、介入しようとせず、そのままにしておけるのも、私が成長したからだといえよう。

ここまで記して感じるのは、私自身がもう「タイプ4ではないのかもしれない」ということだ。いや、タイプ4であるのは真実なのだが、陥りやすいケースやパターンも、作り込んだ性格という仮面も、最早脳の回路から切り離され、消え去り、新しい自我を形成しているのかもしれない。

十月十七日 戸部井