見出し画像

嫉妬しなくなっていた話


 嫉妬関連の話題は何度かこのnoteにも記してきたけど、今回はそれの最新版にして最終章。長い間、「目の上のたんこぶ」だった人へ抱き続けていた嫉妬心の話。(これはずっと避けてきた話題でもあるけれど、詳しく書けるようになったということは、本当に乗り越えられたということなのだと思う。)


 「どうすれば嫉妬しなくなるのか」という疑問に対する結論は、「幸せであること」にある。これは何かを達成すればいいとか、何かを手にすればいい、ということではなくて、あってもなくても幸せ、できてもできなくても幸せといった、執着のない在り方によってのみもたらされる。なぜかといえば、執着は「自分にはない」とか「今はあるけどいつか失うかも」といった思考を生んでしまうから。ゆえに嫉妬をしなくなる為には、真に幸せである必要があって、その為には、心の傷が癒えている必要があるのだ。

 私がずっと嫉妬をしてきた相手は、十年近く前に同人活動で出会ったAさんで、彼女とはSNSで知り合い、向こうからフォローをしてくれたことをきっかけにやり取りをする仲になった。イベントでも顔を合わせるようになって、その時すでにAさんのフォロワーは一万人を超えており、私は「なんだか凄い人と知り合ってしまった!」と浮かれていたのだけど、ここからが地獄の始まりだった。
 Aさんは「流行りの作風」「センスのいい絵柄」みたいな作品をつくる人で、筆も速くコンスタントに絵や漫画をSNSに載せていて、とにかく勢いのある人だった。

 当時最底辺の自己肯定感にあった私は、Aさんの人気ぶりや評価のされ方に、案の定嫉妬をし始めてしまった。最初こそ「いいな」「私も」程度のものだったと思うけど、Aさんと仲良くなるにつれ、彼女の育ちの良さや恵まれた環境、本業でもクリエイティブな仕事をしていることや、生活水準の高さ、持ち物にブランド品があることなどを目の当たりにし、劣等感を抱くようになった。その頃の私は仕事を辞めたばかりで安定した職に就いておらず、貯金もなく、心身を病み始め引きこもり状態で同人にすがりつき、居場所を求め依存し、片付けることもできない部屋で「いいね」や「フォロワー」や「ブクマ」などの数に呪われ始めていたのだ。



 正直なところAさんの絵柄や作風には嫉妬の感情は抱いてなかったけれど、一人の成人女性として、ここに至るまでの背景を想像し比較し、私は嫉妬の念を業火のように燃やしてしまっていたのだ。彼女は温かい家庭で育って、愛されて、だから前向きに生きているのだろう、と。私の人生が上手くいかないのは育ちのせいで、それがAさんとの差を生んでいるのだろう、と。真実は分からないのに、AさんにはAさんにしか分からない、痛みや苦労だってきっとあるはずなのに。当時の私には、そんなことを思う余裕なんて一切なかったのだ。
 その後Aさんとは疎遠になってしまうのだけど、それは私が「自滅」してしまったから。嫉妬心を燃やしすぎて合わせる顔がない。知れば知るほど彼女を嫌いになってしまう。彼女の発行物を貰っても、まともに読むことはできないし、いつもそのまま処分していた。当然そんなことをしてしまう自分への罪悪感も覚えていた。
 その後彼女は商業デビューし、案の定すぐに人気作家となった。私の嫉妬心にくべられる薪は絶えることなく、私の心身を燃やし続けていた。

 私は彼女について、表面的な一部のことしか知らなかったけれど、少なからず、私がずっと欲しがっていたものを全て持っていた(ように見えた)。
 幸せな家族。仲のいい両親。安定した仕事と、それを日々こなせる強い気持ち。同時に、創作活動に必要な資源の確保や、それの管理能力。片付いた部屋。綺麗な持ち物。多くの人を惹きつける作品を、コンスタントにつくり続ける力。丁寧さ。器用さ。センスの良さ。人気。知名度。数字。お金。圧倒的な支持。
 私が何一つ手にすることができなかった物を、彼女は全て持っていた。と、本気で思っていた。せめて「創作だけでは勝ちたい」なんておかしな思考に陥っては、惨敗続きで気力を失っていった。自分が不幸になればなるほど、彼女は幸せになっていくように思えた。日常生活で上手くいかないことが続く中、彼女は商業作家としてみるみる成長していく。心理学の勉強を始めてからも彼女が私の「目の上のたんこぶ」なことは変わらず、なるべく視界に入れないように、わざわざSNSをチェックするといったことはしないように律しては、彼女の漫画がAmazonのオススメに出て来たり、メルカリのオススメに出て来たり、ブックオフの自己啓発コーナーになぜか置いてあったりと、面白いぐらいに引き寄せの法則が発揮される。そしてその度に、砂のようにジャリジャリとした気持ちに心が支配されて、頭の中がそのことでいっぱいになってしまう。向き合い始めて少しずつ乗り越えて、心の傷を癒し始めていても、「またあの頃のような嫉妬を繰り返してしまうのでは」という不安が付きまとう。この嫉妬心を消すためにも、私は「商業漫画に挑戦をする」という大きな行動に出たわけだけど、これは大切な経験にはなったけれど、でもまだ心のどこかでAさんに対するモヤモヤは残っていたように思う。


 先日立ち寄った書店で、再び彼女の漫画と遭遇をした。一瞬ドキッとしたけれど、心がジャリジャリすることはなくて、私はただ「あれ? こんな絵だったけ?」と思ったのだった。Aさんの絵柄が変わったという意味ではなくて、私が今まで漠然と感じてきた彼女の作品の「圧力」のようなものを感じなくなっていた。これはAさんにSNSをフォローされた時と同じ気持ちだった。「こういう絵が人気なんだね」「まぁ、私の好みではないな」という、自分の感情が連動しない、ただあるがままの事実を見つめる視点だった。そこにはもう嫉妬心はなかった。

 長く続いた嫉妬心がなぜなくなったのか、心理学を勉強しても商業漫画に挑戦してもすっきりとは晴れなかった視界が、なぜ今晴れたのか。それは私が「真に幸福になった」ということの証明なのだと思う。
 たしかに私は不幸な家庭で育った。今も変わらず両親の仲は悪い。安定した職には就いていないし、仕事をやりきる気力も大してない。創作活動は縮小して、つくる作品も随分と手を抜くようになった。部屋は散らかっているし掃除は苦手だし、持ち物も安価な物ばかりで、ズボラで、テキトーで、その日暮らしで、いつもふざけてばかりいる。私を知っている人は少ないし、人気とか数とかお金とか、本当にもうどうでもよくなった。でもそんな自分が好きで、こんな生き方は楽しくて、些細なことで喜んでは、「あの時死ななくて良かった」とか、「生きていて良かった」と、今では毎日思い続けている。
 自分の不幸に執着しなくなったのだと思う。持ってないこと、できないこと、失うかもしれないこと、そういうの全部どうでもいい。過去も事実も変えられないけど、でもそれを「どう感じるのか」という自分の認知は幾らでも変えられる。度重なる不幸はたしかに私を傷つけた。でも、これらの傷が今の私を創造し、強さや豊かさをもたらしている。それは紛れもなく幸福なことなのだ。

 元々はAさんが「あなたの絵や漫画が好き」「こういうの描けるの凄い」「ファンです」という言葉と共に、私のSNSをフォローしてくれたことを思い出している。この世界を勝ち負けや優劣で受け取るのは誤りだけど、でも今は少しだけ優位な気分でいようと思う。
 私はもう商業漫画に挑戦することはないし、同人活動で有名になりたいとか、人気になりたいといった思いもない。Aさんと何かを比較して落ち込んだり、優越感に浸ることは今後ないだろう。

 きっとこの先またどこかで、彼女の作品に遭遇することがあると思う。もしかしたらそれは「アニメ化」とか「実写化」とか、更に繫栄した形で私の前に現れるかもしれない。でももう傷つかない。嫉妬で我を失うこともない。私の幸福は揺るがないから。傷跡はもうどこにもないから。

 十一月四日 戸部井寧