感想を欲してしまう心理
【同人やってて嫉妬してしまう人へ。】の記事でも似たようなことを書いたけれど、感想を欲してしまうこと自体は悪ではないし、作品を人前に出している人なら、褒められたい・称賛されたいと感じてしまうのは、ごく自然で当たり前のことのように思う。時間をかけて制作した作品の閲覧数や販売数が明確になるほど、その向こう側にいる人達からの好意的な言葉を待ち望んでしまうことは、決しておかしなことではない。時々そういうのを「承認欲求」という言葉を使って攻撃する人がいるけれど、感想を欲してしまうことを恥じたり、過度に否定する必要はないのではないかと、私自身は感じている。
しかし、もしこれを読む人が「感想が欲しいと素直に言えなくてつらい」とか「感想が貰えなくて落ち込んでしまう」などといったことで悩んでいるのなら、根本的な部分を見つめ直す機会が来ているのではないか、と、私は感じる。
感想を欲することに対して後ろめたさを感じる人は、SNSなどで大っぴらにそのことを表現できないのではないだろうか。感想は別にいらないと強がってみるか、さりげなさを装ってアピールをするか、別にどちらでもいいですよ、と、あえて素っ気なくするなんて行為で、自分の心をはぐらかしてしまう。それらの意識の奥底には「感想が欲しい」という率直な思いがあるのに、言葉にし発信することへの抵抗・恐れによって封じられてしまう。乞食のようでみっともないと感じているのかもしれないし、他者からどう思われるかを過度に心配しているのかもしれない。「そういったことは口にすべきでない」と、自らを罰している可能性もある。どちらにせよ自分の本心を抑圧し心に負担をかけているということで、例えるなら、自動車のアクセルとブレーキを同時に踏んでいるような状態だ。
また、こういった状況にあれば「感想が欲しい」と素直にアピールしている者へ、劣等感や嫌悪感を抱いてしまうことも起こりうる。自分にできないことや自分が抑え込んでいることを、ストレスなくやってのける人を見かけてしまえば、複雑な心境に陥るのも不思議ではない。「ずるい」「いいな」という自らの感情を受け入れられず、そうすることのできない自分を正当化するために「ああいうのはみっともない」とか「物乞いみたいで恥ずかしい」と結論付けたり、処理しきれない感情を怒りに変化させ「あんなことはすべきでない!」と、自分と異なる行動を取る者を悪として裁き始める者もいるだろう。こういった負のエネルギーを漂わせている人に遭遇すれば「この人も本当は感想がほしいのだろう」「しかし上手くアピールできないのだな」と察することができる。そしてその困難の中には“わざわざ感想が欲しいとアピールしなくても、沢山の感想をもらっているだろう人気者への嫉妬心”も含まれているかもしれない。自分自身の本心を抑圧し、他者の動向に躍起なっている人達もまた、人知れず苦しんでいることがうかがい知れる。
温かい言葉はいつだって、作り手への励みとなる。力を尽くして作り上げた作品を褒めてもらえることは、誰だって嬉しい。人生が変わったとか、価値観が変わったなんて言葉をもらった日には、自分自身の存在を丸ごと肯定してもらえた気分になる。そしてそれを活力にし、また作品を作り始める。物を作る人間はそうであって構わない。これはプロもアマも変わらない。誰かを喜ばせるために作品を生み出せば、それは必然的に自分を喜ばせることになる。
では、そのような言葉をもらうことができなければ、作り手としてやっていけないのだろうか。肯定的な言葉を受け取ることができなければ、自分自身の存在を否定されたことになるのだろうか。褒めてもらうこともなく、誰からも感想をもらえなければ、その作品は意味のないもので、自分自身は価値のない存在なのだろうか。
なぜ感想が欲しいのかだろうか。なぜ感想がもらえないと悲しくなったり、不安になったりするのだろうか。感想が来ないと頑張れないとか、感想をもらうために頑張るとか、なぜそういった状態に陥るのだろうか。それは、自分の(作品の)価値を、他者に委ねてしまっているということに、解決すべき問題点がある。
私はここで「あなたには価値があるから自信を持って」とか「もっと自分のことを愛してあげて」なんてことを言うつもりはない。なぜなら、そういった言葉だけでは救われないと、過去の実体験からわかりきっているからだ。歯の浮くような言葉を与えられても「私には価値なんてない」「愛するとか馬鹿馬鹿しい」と、受け取ることができないことを、私は知っている。そして、その傷の深さや苦しさも理解している。他者からの励ましを拒み「自分に価値があると思えなくてすみませんね」とか「自分を愛せない私はダメ人間ですよ」なんて言葉で、さらに自らを痛めつけてしまうのを知っている。
言い換えればこれらは「自分の価値を認める準備ができていない」「自分を愛する覚悟ができていない」ということなのだと考える。そう捉えてみると、まだ支度が整っていない人の手を引いて、無理やり外へ連れ出そうとするのは幾分乱暴なようにも思えてくる。歩く速度や食べる速度が人によって違うように、心を整理するのに必要な時間も人ぞれぞれ違って当然。他者の言葉に自分の価値を委ねてしまう、ということへの解決に必要な時間だって、きっと人それぞれ違うのだ。
最近こういったことを考えることが増えて気づいたけれど、同人活動における嫉妬だとか、感想が欲しいといった心理的な葛藤って、同人活動を始めたから明るみになっただけで、もうずっと長い間、個々の中に潜んでいたのだろうなと思う。仮に同人活動をはじめていなくても、然るべきタイミングで同様の壁にぶち当たって、同様の悩みを抱えることになっていたのだろう、と。最初はいいねやフォロワーの数とか、本が売れ残ったとか感想が来なかったとか、そういう細かな気がかりでしかなかったのに、本質から解決しようとするには、これまでの生き方と向き合わなくてはならなくなる。大袈裟なようにも思えるけど、これって青年期や成人期の発達課題と関連しているのではないかと感じる。同人活動でつまずく多くの人は、それより前の、幼少期や児童期の課題がクリアしていないのかもしれないのだと、そう考察している。
繰り返しにはなるけれど、感想が欲しいと思うこと自体は何らおかしいことではないし、それを活力にし作品づくりに役立てることは、前向きで健全なことだと思う。けれど、もしそのことで自他を罰し攻撃的になってしまったり、必要以上に落ち込んで不安定になってしまうのであれば、それはもう心が限界まで来てしまっていて、SOSを発しているのではないかと感じる。
葛藤は成長のはじまり。私はそれを福音と感じている。これを読むあなたにも、どうかその福音が聞こえますように。
七月九日 戸部井
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