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前世、そして未来の記憶~須賀敦子

内容を確認せずに、作家名だけで本を買うなら、須賀敦子と堀江敏幸の二人だ。何が好きかと問われれば、文学を知っているふりをして、文体がものすごく上品で巧みで、言葉選びが好みですと、人を寄せ付けない答えを用意している。でも理由はまったく違うところにある。

セレネッラの咲くころ
陽射しのあかるい朝だったようにも思う。いや、すこし汗ばむ夏の終りの午後だったかもしれない。街はずれのしゅうとめのところに行くと、ドアが半開きのままになっていて、家のなかはからっぽだった。私がミラノで暮らすようになった一九六〇年前後のことで、みじかい時間ならまだ泥棒を心配することなく開けはなしておくこともできた。もっとも鉄道員官舎のいわば小さな団地の一棟だったから、表通りから中庭に通じる大きな鉄門の入口には、門番で靴直しの店もやっているブルーノさん一家の住居があって、一応、夫婦とふたりの息子たちが人の出入りには注意していたし、住人は住人で、見なれない顔に階段口などで出会えば、用心のためというよりは好奇心をおさえきれなくて、たちまち話しかけて訪問先をたしかめた。
きっと裏庭に干した洗濯物でも取り込みに行ったのだろう。そう思ったから、私はかまわずドア を押してひんやりした室内に入り、ビニールのクロスをかけたキッチンの椅子にこしかけて、しゅうとめが戻ってくるのを待つことにした。~須賀敦子「ヴェネツィアの宿」から

須賀敦子の文章は、私の五感を解放する。匂い、肌感覚で文章を読むのだ。思考ではなく、身体の記憶で感じながら読むと、私はその場面に同席している気持ちになる。私は須賀敦子と一緒に、姑の帰りをまってビニールクロスをかけたテーブルの脇に座っている。外からはイタリア語の楽し気な会話が聞こえてくる。

イタリアに住んでいたに違いないと確信させるほどに、情景を鮮明に感じることができる。それが須賀敦子の筆の魅力だ。彼女が伝えるイタリアの光と闇を、私は「知っている」のだ。それは私の魂が生きてきた記憶だと感じる。

須賀敦子の文章でないと思い出せないのか、という疑問が湧いてくるだろう。イタリア映画を観ても同じように思い出さない。どうも違う。私は大の映画好きだが、イタリアの情景をスクリーンでみて感動しても、魂の記憶が呼び覚まされることはない。文章だけが、魂の記憶を呼び覚ます。それはおそらく、映画の圧倒的なビジュアルをそのまま脳が受け入れ理解する過程よりも、言葉から伝わるイメージを脳が受け取り想像するほうが、何かが呼び覚まされるのだろう。

今世の記憶だけに幸せ探しを頼ると、人生が虚しくなる。魂の記憶をたどると、生まれ変わりながらも命をうけとって活かされる輪廻の喜びに満たされる。

本を読む時間は、魂の記憶を呼び覚ます時間。丁寧に紡がれた須賀敦子の言葉によって、私の魂は過去に出逢う旅にでる。 ~つづく

(次回は堀江敏幸について)



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