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非知(又は自動書記の非科学的運動)
僕らが志向する非知の領域。
不可知の超科学。
(僕はここで自分の意見を述べたいなどとこれっぽっちも思ったことがない。これはあくまでも自動書記。僕が頭で考えたイメージを伝えているのではなくて、手が勝手に自律的な運動を自動的に行っているだけだ。これは僕にはなんの責任もないことの証左である。
自動的に奏でる。私がピアノを引くのではなく、ピアノの音だけが在る。見たいな。
一気呵成に書く。勢いが大事だ。勢いに任せるのだ。躊躇いは死だ。(だが躊躇いは詩にはなる。)行動に注目するということ。巫覡となって語り部となって言霊を通すのだ。僕の考えなど関係がない。
行動療法に近い。
でも若干違う。
行動が先で考えが後、ではなく。行動しかない。考えは放っておく。
むしろ行動も任せっきりである。こんな楽チンなことはない。「自分」から何一つアクションを起こしている気がしない。完全に自分の作為から手を引く気持ちよさ。
それは表面上は行動の形を伴うが、その本質は無為だ。老子の言ったことそのものだ。
思考も思考自身に勝手に遊ばせておく。
僕は思考の働きから手を引く。
勝手に働かせておく。これが大切だ。
思考=自分ではないからそれができるのだ。
多くの人は思考と自分が同化している。
考えを、自分の考え、自分が考えたことにして、考えを自分固有のものとして保持する感覚に陥っている。すぐ所有しようとする
その「自分」さえ思考が生み出したものだと気づかずに。
つまり思考者は思考の働きだったのだ。
仕事でも自分がやるべきでないことは、他者に振ることが大事だろう。
思考も、行動も、「私」にはなんの責任もない。
それらを僕は完全にアウトシーシングし仕事を手放した。
自分勝手な思考など、とるに足らないのだ。
・・・・。
ここで書くことは無為である。
ここで書く目的は美文に非ず。
文体表現に拘らない。昨日までの学んだ全てを、今日なんとはなしにひっかけた酒のせいにして、変更しても構わない。人生の主観は不埒なまでに気軽に変わる。人生観などと言うものはたいそうなものではないが、人間は人生賭けて人生観を構築するべく励み、それを後生大事にしようとする。人間の弱さだね。愛しいと思う。その弱さから高尚な哲学さえ作り上げるがなんてことはない。僕らの怠惰で不埒で弱い性向からひたすか回避し続けた、極めて繊弱な人類が作り上げたものだ。僕はその繊弱な人らが好きだけど。
人生の主観の変更。それは、ふとひっかけた酒や女やふと手にした本や、朝目覚めた時の天啓に従うことや、会社へ行く電車の道すがら突然会社に行くのが嫌になりそのまま山に向かうことにある。昨日までの全てを丸ごとエイヤッ!と投げ捨て平面こくこと。(平気な面で、平然と知らんぷり、みたいな意味で「平面ヘイズラこく」って言わない?今ググっても出てこなかったので気になった)
平面をここう。(これはワシの造語なのか?)
あらゆることに於いてだ。平然と知らんぷりをしよう。あらゆる価値観にFuck it!しよう。日本語で言うと、知らんがな!もうええわ!どうでもいいわ!みたいな意味で、中指を立てよう。これは役に立つ。
価値観。とは要するに所詮、人間の頭で考えた観念に過ぎない。こうあるべきと言った考え。それは他者から、外部から教わったものだ。つまりそれはあってないようなもので、そこまで生きる上で大切にするべきものではない。価値観とは当人がそれを重要だと信じた思い込みに過ぎない。本人はそれはそれは重要なもので命を変えてでも大事にすべきものと思っているものも価値観の中にはあるかもしれないが、その全ては、非常にも幻想であるのだ。人間社会という宇宙からすれば異様に狭小な視野に立たないと通用しないものだ。
〜すべきである、と言った価値観にさも簡単に人間は信じこみ、ハマり込安い。今まで人間、そして自分を観察してきてわかってきたことの一つ。
価値観は所詮、人間社会でしか通用しない糞みたいなものだ。という認識をいつでもお忘れなく。
それは本当に自分の価値観か?他者から盲目的に植え付けられた呪いか?と言った問いもお忘れなく。
価値観にはいつでもFuck it!(知らんがな)(どうでもええわ)(もうええわ)を言ってぶん投げて、君はいつでも自由にふるまうことができる事をお忘れなく。
今まで僕らは価値観、と言うものを当てにして生きてきた。〜であるべきと言った固定観念、信条を大切にしてきた。今こそその呪いを解こう。そうすれば楽になる。自由の味を知る。と言っても本来あった自由に戻るだけだ。
今日ある絵を割とまじに描こうと思ったが、体調を見てやめにした。
あまり寝ておらず体調がすぐれないからだ。
そして気軽にかけるスケッチや今こうして気軽にかける訳のわからない文章を綴っている。
これがルーティンと言う「呪い」にかかると、決まった時間毎日同じことをする、と言う武術的な訓練にも似た習慣を自分に課すことになる。それはそれで役に立つが囚われる必要はない。
価値観とはつまりこうあるべき、と言った呪いのことだ。黒魔術であれ白魔術であれ要は呪いだ。
それは悪いものでもないし、活用したらいいと思う。だが、あまりも頑なな信仰レベルの呪いに昇華されるとしんどいものがあるし、融通も効かなくなり柔軟性を失う。
信仰は必要な人は必要だが「こわだること」が一番の病の源泉である。
だからこそFuck it!
である。
どうでもいいわ!知らんがな!と突っ込むことでその価値観はただの誰かから教わった人間固有の価値観だと見抜くことが起こるかもしれない。それが起きたらしめたもの。価値観・考えと自分を離すことができ、君はまた価値観から一つ自由になれた。何が言いたいかと言うと、つまり、外部の価値観ではなく自分を大切にしよう。どんな偉い人の意見より、ハートの声を。そんなありきたりなことだ。そのありきたりが難しいのだけどね。
めでたしめでたし)
・・・
・・開始3行目で()に入り、その内容で終わってしった笑。本題全く入れなくてウケる。まぁこう言う日もあろう。
雨が降ってきた。
ちょっと休憩します。