私はまだかつて退屈な人に逢ったことがない


〔前略〕

 ここまで詳細に記述したのは、人間の聴覚が招来しうる、馬鹿馬鹿しいほどに即物的な問題の所在を明らかにしておくためだ。21世紀に入ってから「(騒音性ではなく)突発性難聴」のような、一般的に心因性とされる症状の存在が広く知られ、「誰もがいつなぜ大好きな音楽を奪われるかわからないんですよ」的にメソメソした言辞がミュージシャンの側から発されるようにさえなった。それはそれで構わないのだが、私としては、人間の感官はもっと馬鹿馬鹿しいほどに即物的なのだと強調しておきたい。これは単にフロイト主義の為せる業だろう、私は極端な環境に置かれた人間が極端な心身の状態に陥ってしまう例をなんら特殊な事と見做さないし、憂慮すべき事態だとすら思わない。第一次世界大戦後の戦争神経症を元手にフロイトが展開した驚くべき知見の数々を思い出すだけで明らかだが、人間の心身は極端な環境から極端な影響を受動するにおいて正直極まりない。逆に言えば平穏に配慮された環境では平穏にやってゆけるのもまた人間であり、ここにこそフロイトがタルムードとニーチェ哲学の双方から相続した「人間=法によって成形された産物」の理路を見出すことができるのだが、こんな20世紀的な常識をいまさら詳述はすまい(というか『関心領域』を観たうえで言うが、あの映画で起こっていることも本段落内での理路を寸分も逸するものではない。いまさらあの程度のホロコースト観を突きつけられて大興奮していた者どもが大勢いたことに関してはいくら嘆いても足りない。対して、ユベルマンの『イメージ、それでもなお』には何度読み直しても汲み尽くせぬ智慧の数々が湧き立っている。つい先日の再読時にも “類似を炸裂させ、同化を不可能にする” というパンチラインを拾ったばかりだ。この一文がラカン的にどのような重要性を持つかについて詳述の要などあるまい)。

 ひとつだけ付言しておくなら、いわゆる「ミルグラム実験」や「スタンフォード監獄実験」を元手として「なんということだあ! 人間はここまで残酷になれてしまうイキモノなのだあ、これはもうほとんど動物だあ」などの驚嘆を導き出してしまう輩どもは21世紀前半にも相変わらず簇生しているが、その者どもの知能程度自体が文字通り動物的なまでに愚かなのだ。連中が言っているのは、「いいですか! 床一面に灯油を撒いて、マッチを一本だけ擦って落としてみましょう。すると見てごらんなさい、火はこんな勢いで燃え広がるのですよ! 我々がふだん使っているものは、これほどまでに危険なのです!」程度の謬見にすぎない。その者は単に、注意とともに火や油を使って暖房を機能させたり湯を沸かせて茶を淹れたりする藝術的才覚を持たないために前述の極論を述べているだけのことだ。つまり放火魔になる程度の才覚しか持たずに生まれてきた者が順当に放火魔として自己実現を果たした、それだけの凡事にすぎない。重ねて例えるなら、傘は雨や日光をしのぐための道具である。しかしその先端で人間の眼を衝いて潰すこともできる。それを根拠として「なんということだあ! 我々はこんな凶暴なモノを使わされていたのだ。もはやこれからは、傘など一切なしに土砂降りの雨の中を歩いてゆくしかないのだあ」と嘆いてしまえる者は、最初から傘の使い方を間違えているだけの白痴にすぎない。もちろん「物や器官には、正しい用法および効能があるのではない。絶えず優勢な力によって新しい方途へと向け変えられる、その変転のさまが在るのみ」というのはフロイトが『道徳の系譜学』から相続したニーチェ主義である。この理路は人間の心身に対してはもちろん、歴史に属する集団性や個体が成形されるプロセス自体への分析にも適用される。

 以上の(言うなれば「精神分析の政治性および歴史性」の)理路すら踏まえず、「ミルグラム実験」のような誣説を批判することができないばかりか、あまつさえその実験名を広告代理店的センスによって冠したゲーム作品を発表している山中拓也のごとき輩は、既述した人類の理性および知性の系譜から見放されているばかりか、音楽を代表とする藝術表現をすら全面的に侮辱していると言いうるだろう。以前私が “「音楽を利用して音楽を侮辱することに関してのみ天性の才能を持っている男」こと山中拓也” と書いたのは、この意味においてである。この者は “大学時代に心理学を専攻し、カウンセラーを目指していたが「優しすぎる」という理由で挫折” と、読んでいるこちらがたじろいでしまうほど幸福に合理化された自己認識に安らいでいるようだが、このような認知の歪みは “「心理学などという俗耳受けするかたちに簡便化されてしまった教科にのみかかずらうあまり精神分析および精神医学に内蔵された政治性と歴史性の意味を見誤った」という理由で挫折” と矯正されるべきだ。山中拓也が(主にボーカロイド界隈の楽曲が既得権とする、「病んだ」要素を架橋として)『ミルグラム』や『カリギュラ』(←私が山中拓也のネーミングセンスを「広告代理店的」と称した意味も明瞭に理解されたろう。大学生の合コンなどで知的な話題として弄べる程度の「心理学」などはともかく、精神分析および精神医学に内蔵された政治性と歴史性は、ボブ・グッチョーネ的な「エグい見せ物」のセンスとは根本的に無縁であるのにも拘らず、その双方を21世紀的な「軽症にもほどがある病み」の瞬間接着剤によって膠着させることによって自らの商売を維持しているのが山中なのだ)などの「心理学用語」を見せびらかした作品を売り捌いている事実と、彼の精神分析および精神医学に内蔵された政治性および歴史性への顧慮の欠如とは、分離不可能な唇歯輔車として結託および機能しているのである。

 さて前回の記事では、現今におけるソーシャルメディア依存症患者に蔓延した「公と私における恥の観念の逆転」のメカニズムについて部分的に明らかにしたが、今回も同じテーマを別のかたちで引き継いでみるとしよう。
 現在の私が有する note アカウントのアルゴリズムは、『学園アイドルマスター』に関する記事が自動的に寄せられるよう最適化されている。その理由は明確で、「とある『学園アイドルマスター』楽曲関連の話題が盛んに共有されており、私自身もその楽曲を聴き、事後的にファンダムの反応を収集するようになった」ためである。当該楽曲に関する私の評などは書かない。途方もない期待外れに終わったためだ。私はいわゆる「ラテン音楽」ではキューバ産のものを最高級品として愛好する者だが、ブラジル音楽に関して一家言以上持っている者とは(濱瀬元彦氏という偉大にしてほぼ唯一の例外者は居られるものの)今後の人生において一切関わり合いになりたくないという思いを新たにした次第である。その意味では『学園アイドルマスター』の某楽曲にも相応の価値があった。とくに「和声構造に関してはそれなりに知ったことを言えそうな輩も、ことリズムの構造分析に基づく美的判断に関しては意識が向かないどころか、ほとんど無知無能といってよい」という知見は、私がかねてより感受していた「日本国の一般的な音楽リスナーが具備している審美的態度および能力の諸傾向」についての考察を促してくれる具体例であった……などについてもすべて省略する。
 その時点で『学園アイドルマスター』楽曲に関する興味はほとんど失われていたので(しかしそれでも、『Luna say maybe』という言語的センスは、本当に、悪い意味で物凄い。「母国語の鍛錬に飽いた者は外国語をも侮辱する」という典型をこの上なく明快に示す例である。『Luna say maybe』という“英語”文は、日本語で例えるなら『トカゲ脱が八重桜』のようなものだ。それくらい物凄い。というか「『Luna say maybe』とは『トカゲ脱が八重桜』である」という表題の記事を書きたくてしょうがない)、例によってキャラクターフランチャイズ商売のファンダムにおいて流通する、オタク特有の富まないユーモアに支えられた記事の数々を開きながら、西暦2024年の大衆的な症候を読み取るだけの作業が残された。人間的な物事である限り、私と無縁なものは何も無いのである。実際この作業によっては、先述の楽曲聴取とは比べものにもならないほど豊かな知見がもたらされた。たとえば、次の一稿。

 もちろんこの著者自体は、いかにも21世紀前半のオタクに典型的な富まないユーモアに恵まれており、凡庸極まりない。『ジョジョ』のコマを引用した何か面白いつもりの一発ネタなど、あまりに寒々しすぎていっそ素晴らしいほどだ。しかし注目すべきはそこではない。彼の書き物にさえ読むべき箇所は在るのだ。それは彼が、 “「日本語が書ける人間なら誰でも小説を書ける。だから書け」という持論を展開している” ことである。
 前段落で述べたことと矛盾するようでしないのだが、私はこの類の宣明を、他の(オタクとは限らない)「字書き」たち(←もちろん「字書き」を名乗る者は、実際には字など一度も書いたことがない。キーボードやタッチパネルによるフォント入力だろという技術的な問題ではなく、単純に文字は絵だからである。これは今更ブランショやフーコーや吉増剛造を引用するまでもなく明らかなことだが、「絵描き」と「字書き」との間に明確な分断線は存在しない。「字書き」などという名乗りによって暴露されるのは、「わたしは文学や絵画をふくめたあらゆる表現を感受する鍛錬と無縁に生きてきた者です」という端的な事実のみである)から長きにわたって受け取り続けていたからだ。いわく、「日本語を書ける人なら誰でも小説を書ける」、あるいは「音楽や絵とは違って、義務教育を終えた時点で誰でも小説の表現者になる準備は整っている」などと。前の括弧で長く書いた事項を踏まえたなら既に自明だが、これらの見解はすべて間違っている。なぜなら、ヘルダーリンの詩論を引くまでもなく、母国語こそ自分の思い通りにならないものであり、だからこそ表現をおこなう者は絶えず言語(とくに母国語)と新たな関係を結び直さなくてはならないからだ。これは音楽や絵画のケースとも全的に置換可能である。実家のピアノ教室でいくらでも演奏する機会があった者が必ずしもクラブでの演奏についてこられるとは限らないように、画家である父親から画材をふんだんに恵んでもらっていた者が優れた画家として立身できるとは限らない。繰り返すが、自らがおこなう表現自体と新たな関係を結ぶことができたかどうかを人間は常に問われ続けるのであり、それは既得権としての環境や受けた教育の程度とは全く関係がない。いわゆる「学校でセンスを教えられるのか問題」の本質とは、まさにこのことに存ずる。
 さて前掲の記事を書いたオタクくんは、『学園アイドルマスター』のキャラクターに関する乱雑極まりない言及こそすれ(異性の表象に対して「性的かつ幼稚なあてこすり」以外に言及の方途を持たない性向は、文字通り小学生未満の学齢のまま発達が停止した者として典型的である)、楽曲については特に言うべきことを持っていないようである。私が色々な意味で勉強にさせていただいた「楽曲解説」系の記事は、彼の手によってはひとつも書かれていないからだ。ということは、 “「日本語が書ける人間なら誰でも小説を書ける。だから書け」” というカッコイイにもほどがある持論を展開している彼は、文字や絵の表現と同程度には音楽を重んじていないようなのだ。
 さしあたり以上を踏まえて、天地万有の藝術表現において何よりも音楽を至高のものとする私にとっては、ひとつの関心事が不可避的に見出されざるを得ない。それは、 “「日本語が書ける人間なら誰でも小説を書ける。だから書け」という持論を展開している” 彼に「声が出せる人間なら誰でも歌手になれる。だから唄え」と言ってみたらどんな反応を返されるのだろうか? ということだ。愚直に繰り返すが、あらゆる表現をおこなう者はその表現自体と新たな関係を結び直し続けなくてはならない。にも拘らずこのオタクくんは、文字表現(←文学表現ですらない)に関する当然の前提すら無視して “「日本語が書ける人間なら誰でも小説を書ける。だから書け」という持論を展開している” ことは既に見た。
 要するに私は、彼に「声が出せる人間なら誰でも歌手になれる。だから唄え」と言ってみて、大いに恥をかかせることができれば、それによって彼も多くのことを学ぶのではないか? と思うのだ。「声が出せる人間なら誰でも歌手になれる。だから唄え。テンポは自分で出していいよ。はいどーぞ」と振ってみて調子っ外れの声を出すならまだ良いほうで、たじろぎながら「ア…ア…」程度の呻きを発することしかできないのが実際なのではないか?
 当然ながら私は、上述までの内容によって「字書き」オタクくんの音楽的能力の欠如を難詰または嘲笑しているのではない。私はそもそもすべての人間が優れた音楽家になれるという前提で物事を思考する者である。肝心なのは、彼が「人前で歌を発表すると恥をかく」と考えている可能性は十分にあるにも拘らず、同様に「人前で文章を発表すると恥をかく」と考えているかもしれないとは到底思えないという、まさにその印象そのものなのだ。既に引いた内容からして明らかだが、彼は文章表現において抜きん出た技術および才能を持っているわけではない。にも拘らず “「日本語が書ける人間なら誰でも小説を書ける。だから書け」という持論を展開している” ほどに彼は自信満々なのだ。ということは、彼は「人前で文章を発表すること」は「人前で歌を発表すること」より恥ずかしくないと思っているのではなかろうか? より正確には、「歌を発表すること」では恥をかくかもしれないが「文章を発表すること」で恥をかく可能性は無いと思い込んでいるのが彼なのでは? そしてその性向は、彼自身が自らの表現と新たな関係を取り結ぶ必要を一切認めず、「日本語が書ける人間なら誰でも小説を書ける。だから書け」という安易簡便な根性論を表明して憚らない理由と同じところに根差しているのではないか?

 以上の理路が見出されたとして、これらの知見が収穫された時点で手を止めておくのが私なのだ。これは「人体実験をしてはいけない」という倫理的な問題よりも、むしろ「ダンプカーで幼稚園に突入してはいけない」という技術的問題に近い。私は以前、 Twitter アカウントを所持していた頃に交友していた(どれくらいかというと、『アイカツスターズ!』放送時に私が彼と共同で発表した楽曲分析の記事──その内容は一から十まで私がお膳立てしたにすぎなかった──がそこそこの好評を呼び、お互いに誕生日プレゼントを贈りあっていたほどの仲である)男性(ふたつ歳上・日大の国文学科の院卒で中井英夫の研究をしていた)に対して真っ向からディスリスペクトの一文を草したことがある。コロナ禍中に彼が死ぬほどダサい態度を表明していたため、それを読んだ私がブログのコメント欄に投稿した程度の仕儀にすぎなかったが、それを受けた後の彼は文学者として再出立するどころか、知り合い主催の馴れ合い合同誌に寄稿するための掌編すら仕上げられなくなってしまった。一時期は “「(文学など)何の役に立つの?」と聞いてくる腹立たしくも愚昧な連中を非難し、屈服させ、アジテートし、遂には文学の傀儡に加えてしまおう、というのが文学部千年王国の大いなる野望なのだ。”(Twitter 原文ママ) と超カッコイイ意気を表明していたにも拘らず、現在の彼はもはや自らの肉体も精神もネグレクトしてしまい、せっかく大学で仕込んでもらったはずの文学的能力は、二次元アイドルやウマ娘や Vtuber たちを賛美するための語彙としてのみ活用されている。そのようなダメージを与えうるほどの実際的戦闘能力を有している私が好き放題に振る舞ってよいわけがない。よって『学園アイドルマスター』の彼に関する分析はここで打ち止めとし、かつて私が『アイカツスターズ!』の二次創作品で得た知見と同様に、手元の道具として温めておくのみとする。

 いみじくも『アイカツ!』フランチャイズといえば、これも note の特性と関係があるのだ。検索窓に「アイカツ」の4字を入力しさえすれば、驚くほどの愁訴に満ちた腑抜け記事たちが羅列される。その典型として該当するものは前掲記事にて既に取り扱ったが、先日にも同様の検索をしてみたところ、新鮮な雑魚が釣り上げられた。

 実を言うと、私はこの者(のアカウントの存在)を以前から知っており、他にも20体ほど存在するX(前 Twitter)上の無料モルモットとして観察させてもらってはいた。とくに「凄い言葉リスト」という、もはや通俗的な名言集ビジネスやディスカヴァー・トゥエンティワンの超訳本を遥かに下回る水準の貧しい文学の受容態度をまざまざと見せつけてくれたのが彼であったため、同時代における症候のうち最も切実で滑稽な諸例を明らかにしてくれる個体としてかねてより注目していたのだ。そんな彼が満を持して発表した映画感想記事には、『アイカツ!』フランチャイズから受けた深甚な影響と、それを元手としても “齢27に及んで何一つとして生み出すことができていない“ 自身の境遇に憤り、 “それは、俺が生まれてきてから一度もなにかに真剣になれたことがないからだ” と顧慮するにいたるまでの、実に感動的な述懐が並んでいるではないか。
 正直なところ、彼が自身の不甲斐なさの所在を “一度もなにかに真剣になれたことがないからだ” という極めてフワッとした精神論に帰していることが何よりもまず興味深く、単純におもしろい。『学園アイドルマスター』のオタクくんのケースと全く同じように、言うに事欠いた人間が逃げ込むのは必ず精神論もしくは根性論なのだ。『アイカツ!』の彼は、まるでひとたび “真剣になれた” なら何かを成し遂げられるはずなのだという前提を導き出しうる文言を発しているが、この子の無能力および非生産ぶりの原因は “真剣” さなどの精神論とは全く無関係の具体的かつ実践的な領野に存ずるのでは、などの至当な疑義ですらさして興味深いものではない。

 重要なのは、この手の嘆き節を打つ者が『アイカツ!』フランチャイズの集団性(ファンのみではない)に多く存在しているという、まさにその事実なのだ。フロイト主義的に重要とされるのは質ではなく、量的な還元である。そして「ひとりの者が言うだけなら妄想、ふたりの者らが言うなら幻想、さんにん以上の者らが言うなら現実」とは中国故事「三人成虎」が教えるところでもある。正直に言うが、『アイカツ!』から影響を受けて何か溌剌とした意気とともに自らの表現を行っている者など(私以外には)見たことがない。『けものフレンズ2』から某ャニマスのアニメに至るまで、かつて『アイカツ!』フランチャイズに携わっていたスタッフたちから市井のファンたちも含めて、わずか10年にして何故あそこまで意気阻喪してしまえるのだろうか? と驚かされずにはいられない。楽曲提供者が性犯罪者になったり脚本家がネット上の「コロナの無かった世界線」に引きこもって典型的なネトウヨ投稿を引用しつづけたりするようになること、まさにこれらの症状こそ彼らが受け取った SHINING LINE* のチカラの発露だと解釈すべきなのだろうか?

 と、以上は私が2017年頃から展開していたフランチャイズ批判の変奏にすぎないので、『アイカツ!』に並々ならぬ思い入れを抱いているあの子に話を戻そう。彼がとある映画を自白剤として盛られた結果吐き出した記事には、彼自身に蔵されている文学観または表現観とでも呼びうるものが過不足なく勢揃いしており、さながら彼の現状ベスト盤の如き充実を呈している。

死ぬほど『デミアン』(高橋健二訳)を愛し、擦り減るほどこの言葉を読んで、それで俺はどうして未だに自分自身に達さず、自己の運命を見出さず、自己の内心に対する不安から大衆の理想へと退却している!

 彼の愛読書が『デミアン』であり、その小説の内容自体が創造性へのゲートウェイ(より『アイカツ!』フランチャイズふうに言うなら『君のEntrance』)であるかのように錯覚していること自体、実に20世紀的な類型として予測可能なことではある。現にモードリス・エクスタインズ著『春の祭典』の読者でありさえすれば、『デミアン』をこよなく愛する彼の精神性が大戦直後のドイツ語圏人のいじけた超脱妄想と全く同じ轍を踏んでいることが理解できるだろう。そう、ここにあるのは100年前の文化的錯誤を全く同じようになぞっている、生真面目にして不勉強にして幸福な21世紀前半人の姿なのである。
 一方ここには、私が2021年末の時点で認めておいた、ユング=ヘッセ批判にして『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』批判にして2022年以降の世界精神の衰弱ぶりを予見したものとして完璧な文章がある。そう、肝腎要のものは既に書かれているのだ。新進の甘ったれた表現を盛られて同質の嘆き節を吐き出してしまえる者どもは、100年前に『デミアン』を叩き台に卵の外側を夢見ていた輩どもと同様に、多数派にして凡庸な幸福の享受者にすぎないのである。

 さて本稿に並べられたのは、人間の身体性に関する実践的な観察から、同時代的な(視覚を主とする)表現にまつわる意識の若干を経て、相も変わらず自らが属する世界の歴史性を忘却してしみったれた自意識=卵にとじこもって事足れりとする(卵を破るべく志そうと同じことだ。世界の外側には単に別の世界があるのみで、『デミアン』的な超脱などいつまで経っても与えられることがないのだから。この意味においてヘッセ文学とは最低の意味においての弁証法であり、あらかじめ敗北が運命付けられたヘーゲル主義なのである)者どもの姿を照らし出すにいたった一本線である。こんな SHINING LINE* ならいくら在っても構わないほどだ。その端緒が私本人の音楽制作中に出来した錯聴経験から発していたこともまた欣快とすべきである。いかなる理路も私は、自身に定められた仕事以外の何処からも創められず、まさにそのことによって(『アイカツ!』フランチャイズ依存症患者に典型的なジャンキーぶりとは別の)健やかな軽快を保つことができるからだ。

 どのような貧困の世相においても、人間は面白い。人間は素晴らしい。いつだって人間には何の問題も無いのだ。淀川長治氏による「私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない」の金言は、まさに本稿で私が述べたような意味として理解されねばならない(私の知る限り、ノンケの者でこのことに気付けているのは丹生谷貴志氏しか居ないが)。ここで分析対象としたのは、あらゆる意味で貧しい同時代人たちの姿ではあったが、それでも私は完全に退屈な人を見つけることができない。何となれば、個々の人間のうちに蔵された症候の数々こそが、この世界は政治的・歴史的な諸条件のうちにしか存在し得ない事実を証明してくれるからだ。そのような同時代症候集の内容があまりに退屈と無縁なので、私はいつでも創造的でいられる。人間的な物事であるかぎり、私と無縁なことは何も無いからだ。そして智慧は必ず肉体を介して一身を訪うのである、数時間に及ぶミキシング作業の果てにいきなり訪れた錯聴症状のようにして。



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