21世紀の食糞嗜癖者
以前にも書いたが、私は X(前 Twitter)上に「治験用アカウント」、または「無料モルモット」とでも呼びうるアカウントを20体ほど所持している。もちろん私がログインできるものではなく、全き他人によって自由に運営されている類のそれらである。私は西暦2017年夏に Twitter(当時)アカウントを削除して久しいので、現在はボランティア(←文字通り「任意行為者」)たちがなぜか連日 World Wide Web 上に可視化してくれている生態を介して、同時代的な症候の数々を仔細に検分させていただいているわけだ。その実験場の個体をさす呼称が「治験用アカウント」または「無料モルモット」である。
そんなアカウントの書きものを読んで何の益があるのか? と問われるかもしれないが、これが有用極まりないのだ。私は2019年7月執筆開始の『χορός』から2021年6月以降現行で続けている Parvāne まで、20代の後半から堰を切ったように自らの創作を続け・具体的な成果物を刻々と残してきた。それらの作業中には、自らの持ちうるすべての時間と実力と財産を注ぎ込む必要があるため、執筆・作曲・実演の最中には自らの肉体を文字通り干上がらせる必要に迫られる(←というのは必ずしも正確な表現ではない。「不可避的にそうならざるを得ない」のが実際であることは、同じ作業に身を置いた経験のある人々であればお解りだろう)。そのようにして1日の作業を終えた夜に、前述のアカウント群によって書かれた何かを読んでみると、この上ない癒しのフィーリングが得られるのだ。それはさながら冷却ジェル製のアイマスクのようなもので、自身の熾烈な作業によって残留した余熱を瞬く間に冷やしてくれる。言うなれば「治験用アカウント」たちによって書かれたテキストは、無料で利用できる冷却剤に等しいのだ。ロラン・バルトが謂ったのとは全く別の意味で、時折私には『零度のエクリチュール』が必要となる。彼ら彼女らの手によって放たれた・何の才能も努力も必要としない・作品としての結晶を前提として凝らされた工夫とは無縁な・身内だけで通用するジャーゴンに浸されてぶよぶよになった水死体が如き文章の数々から、一体どれほどの癒しを恵んでもらったことか。もし「治験用アカウント」たちから提供される冷却剤がなければ、私は Parvāne の1stアルバム制作中に燃え尽きていたかもしれない。自らの創作で磨耗し切った状態でブランショや大江健三郎の本を読むなどは、9時間ぶっ続けの作業でヒートアップしたラップトップを電子レンジで加熱する行為に等しい(←これはあながち大袈裟な表現ではない。既に何度も書いた笑い話だが、私は『χορός』第17章の 38,500字を1日で書き切ったとき、旧式の MacBook のアルミ面に掌を押し付け続けていたため、右手の小指の付根あたりの一帯が低温火傷になった)。既述のように、私のような「思いついた。やってみた。できた。はい次」式の創作を停める手立てを持たない躁病質の人間からすれば、自らの熱の過剰を鎮静化させるための代替物が必要とされ、その役を十全に果たしてくれる物体がまさに「治験用アカウント」であったわけである。
さて私は現在、次の音源制作のために機材を新調した状態にあり、先月から始めたミキシング作業も佳境を迎えている。先述の通りすべての時間と実力と財産を注ぎ込む必要があるため、このように閑雅なテキストを通勤中の電車内で書く楽しみや最低限の家事以外には、すべての時間を音楽のために費やさねばならない。その最中にも熱は当然上がってくるため(そもそも以前書いたテキストの冒頭は、「ミキシング作業中にいきなり訪れた、特定の音域だけが際立って聴こえてしまう状態」の具体的分析から始められている)、いつも通り「治験用アカウント」たちが懸命に無料で生産し続けている冷却剤を回収しに出かけたわけだ。
すると目に入ったひとつの投稿。
言うまでもなく、この子が衝動的な感想を寄せる結果となった映画『数分間のエールを』は、前回の分析において私が俎上に載せたオタクくんもまた情緒的な自白剤として歓迎していた代物である。
単なる20世紀的なフロイト主義者でしかない私にとって、社会野における諸傾向を分析するために着眼するのは質よりも量の要素である(そもそも「治験用アカウント」たちによって放たれる書き物に質的クオリティなど求めようもない事実もあるが)。今回『数分間のエールを』を盛られて情緒的な感想を吐き出すことになった新しい彼もまた、あの『アイカツ!』に対して過剰な思い入れを抱いている別の彼と同様に、 “挫折してからがものづくりだというテーマに、励まされた。夢が折れても諦められず、その結果、彼方に出会えた夕の奇跡に夢を見れた。それと同時に、「自分はまだ、挫折するほどの頑張りもできていない」と思えた” と、わざわざ他者の作品をティッシュの代用品のように使って自分の惨めったらしい情緒を拭いとり、そのシミの数々をブログ記事という体裁でテキスト化したものを World Wide Web 上に公開することで “やりがい=「自分の手で、大好きな作品の魅力を言語化し、誰かに伝える」という楽しさを感じ” ているようなのだ。これではまるで、『数分間のエールを』という映画には「何に対しても真剣になれたことがない自分」や「文才があるはずなのに何も書けてない自分」、総称すれば「作品と呼べるものすら何一つ仕上げていないくせに “作家としてのワタシ” をネット上で演出することには余念がない人々」を引き寄せる磁力が備わっており、その資質に適合した者たちは無生物的な受動性によって誘引されざるを得ないかのようではないか。
ようではないかと書いたが、まあ実際にそうなのだ。たとえばジャズという音楽に一切の敬意を表さず/一方では「人生を犠牲にし身体をボロボロにしてまで歩むアーティストの苛烈な道」的な退屈極まりないモノガタリに濡れ切ってしまえる権力欲まみれの童貞坊やは『Whiplash(邦題:セッション)』を生涯ベスト映画に挙げてしまえるだろうし、日常の凡庸な時間の過ぎ行きに確かな創造性が宿ってしまう事実を理解しない者には三宅唱監督『THE COCKPIT』の内容は1秒たりとも理解できないだろう。そして『数分間のエールを』は、いまや新たな「創作したいけどできないボーイたちの嘆き節にうってつけのオカズ」として可視化されているわけだ。前にも書いたが、今となっては「映画鑑賞」それ自体よりも、「ある特定の作品(とくに視覚表現:映画やアニメ)のファンダムに属する者たちの生態から得られる知見」のほうがよっぽど面白い時世になってしまった(『関心領域』のような代物も含む。日本公開から2ヶ月が経過せんとするタイミングで、ようやくあの映画がアーレントの謂う「凡庸な悪」とは無縁な内容であることに関する合意が形成されているようだが、遅すぎるとしか言いようがない。『関心領域』を盛られて何か昂った感想を吐き出した輩どもの生態から窺い知れたのは、「21世紀前半人は20世紀中盤の世界史的事実に関してすら無知蒙昧である」という実相であり、こちらのほうが映画本編の内容などより数倍興味深く・単純に面白い)。私としてはさしあたり、眼前に展開されている同時代的な症候に対し、具体的な分析を加えてみるとしよう。
まず今回新たに『数分間のエールを』を盛られた彼に関してだが、読者におかれては既にお気づきのように、私はかねてより彼のツイートやブログ記事を(先述の「冷却剤」として)回収したうえで利用させてもらっていた。どのような経緯で彼の書き物を発見したかというと、もちろん『アイカツスターズ!』関連の記事を介して。
弊 note の記事をいくつかお読みの方には説明するまでもないが、私はかつて『アイカツスターズ!』に関する総計32万字ほどの評論を電子書籍として頒布したことがあり、その中の一部はここでも読める。『アイカツスターズ!』が如何に未曾有の出来事として記憶されているかについての説明はすべて省くとして、私は現今においても定期的に『スターズ!』関連の記事を検索しており、 Google で引っかかる限りにおいての『スターズ!』関連テキストはすべて読んだのではないかとさえ思われるほどだ。そこまでの渉猟に駆り立てる動機はもちろん、いつか『Summer Tears Diary』のベースラインに関する剴切なアナリーゼ(私がかつて Tool の『The Patient』に対して行ったような)を目にすることができないかという予感である。もちろん、現在にいたるまであの驚くべき楽曲に仕込まれた異形のベースラインの秘密を解き明かすことができた者は(私も含め)ネット上には確認できていないが。
一方、『アイカツスターズ!』本編に関する情緒的なばかりの感想記事などは嵩を増すばかりで、それらの検分過程で既述の彼らは私の読解対象となったわけだ。既に弊 note の『スターズ!』関連記事においては常連となりつつある tunacan 某も、かなり早い時期に「治験用アカウント」として私から注目されるようになった個体である。そして今回の記事を起こすきっかけとなった、『数分間のエールを』をうってつけの自白剤(もちろん「ワタシの挫折しつつある創作道」を吐くための)として歓迎した彼は、 X(前 Twitter)でtunacan 某となかよしなのだ。類は友を呼ぶとはよく謂ったものである。
まず『数分間のエールを』の彼が書いたものを検分するよりも、その親友である tunacan 某が先んじて書いていた、『ブログやnoteは「記憶のセーブデータ」を作る行為なんだから、どんどんやったほうがいい。』という表題の、おありがたい託宣を読ませていただくとしよう。
精神分析および精神医学(←もちろん俗耳受けする自己愛まみれの「心理学」などではない)に関する知見を一定以上お持ちの読者に対しては説明の要もないことだが、ここで彼が述べている主張はすべてジャック・ラカンの「対象a」概念で説明できることが解るだろう。もちろん本稿はラカン理論の入門用に書かれたものではないため初歩的な用語の説明などは一切省いて進めるが、ここで tunacan 某が論拠とする “その時自分が何を想い何を感じたのか” の重要性は、ラカン理論を適用すれば「つまり乳房、糞、眼差し、そして声」のような「取るに足らない」ものでしかなく、だからこそ自分自身の「リアリティ」を担保するものとしてそれら=「対象a」を必死に掻き集め・貯蓄し・残高の桁を数えることで満悦しなければならなくなる。これら「対象a」がもたらす「リアリティ」は、資本制がもたらす蓄財の多幸感や今日的な「バズり」の法悦感(預金残高化したフォロワーまたは閲覧数)にまつわる分析にもそのまま適用可能だが、例によってラカン的用語の数々が本稿の隅々を占拠しそうな気配が濃厚なので、これ以上は述べない。
そこで、本稿の冒頭にて引用した中井久夫氏による “個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。” という達見が意味を成してくるわけだ。「前ゲシュタルト段階」についてはネットで検索してさえ日本語で書かれた論文がいくつも見つかるが、中井久夫氏の筆による『執筆過程の生理学』および『創造と癒し序説』は創作の道にいざなわれた作家の心身を訪う苦衷を驚くべき明晰さで分析した名文である以上、そこで引用された「ゲシュタルト的言語」および「イマージュ複合」も実際的な創作のなかに位置を占めるものとして理解されねばならない。
この段落からは筆者による私見を述べるが、言語的な「前ゲシュタルト段階」とは、作詞の経験があるならば誰もが覚えているはずのものである。あらかじめ出来ている楽曲に詞をつける場合、それを担う者は母国語と外国語の区別が無い音韻の次元に引き摺り込まれ、その只中で自らの力能を発揮するしかない。たとえば私が『蛾の死』劈頭を作詞していたとき、歌い出しが a i a i の母音であるべきことは明確であったため、「玫瑰」続いて「相摩し」の韻が得られた。ここで私の心身を占めていた「歌い出しは a i a i の母音であるべきだ」という奇妙な当為感覚、これこそが実際的な創作における「前ゲシュタルト段階」そのものである。作詞者はなぜか、おそらく自らの人生で培った言語的な美的判断能力により、「この書き出しはこうであるべきだ」という感覚を抱き、それに即して執筆を始め、当然ながら書きあぐねる(のみならず、具体的な肉体の疲労さえもが蓄積する。『蛾の死』の作詞中、私は奥歯のみで糸蒟蒻を噛み切ろうとするような口の動きを延々と続けながら a i a i と呻いていたことを憶えている)。いま『蛾の死』として聴取および読解できる音楽作品はもちろん私がその道を踏破した結果の所産だが、この事実を踏まえれば解るとおり、創作における「前ゲシュタルト段階」は、その作品が完成する過程においてあらかじめ消滅を運命付けられており、そうでしか在り得ない。なぜなら「前ゲシュタルト段階」の感覚とは(建築作業で喩えるなら)足場のようなものであり、竣工が近づくにつれ解体を余儀なくされる、その程度の役割しか持たされ得ない質のものだからだ。創作という行為の性質上、本然的にそうであるしかない。
(ちなみに、作曲における「前ゲシュタルト段階」は別の性質を備えている。平均律以降の作曲においては、「思いついたフレーズ」を具体化するにおいて調性・音色・リズムフィギュアなど様々な既存のディシプリンが動員されるため、訓練さえ積めば言語のそれより容易く作品化できる場合が多い。少なくとも筆者にとっては作詞より作曲のほうが数倍容易く作業を進行させられる。)
これはなにも、実地に創作を行う者にとってのみ限られることではない。いわゆる「推し」のコンサートやら何やらを観て「すごかったしこの感動は間違いなく本物だろうけどうまく言語化できない」という複合状態に取り憑かれた者たちは今夜も昂った調子でネット上に「熱量と文字数」を吐き出すのだろうし、ここにこそ近年において「言語化」という語の株価がかつてないほど上昇している根本の理由が存ずるし、また対象の素晴らしさをうまく言語化できないとき末尾に添えられる(語彙力)という表現が一般的に共有された根拠もこれで説明される(そして前にも書いたが、「語彙力」とはそもそも「無尽蔵の言語表現の中から価値の優劣を峻別し、『これだけは絶対に遣わない』と自らに課した禁則をどれほど堅く維持できているか」によって判断される能力であり、「どれほど多くの言葉を知っているか」などというオタク的ヒエラルキーの中でのみ高値を記録する要素などとは何の関係も無い)。そして現代における幸福なオタクの典型である tunacan 某もまた、 “ある意味で、未来の自分への「投資」として、何でもいいから書き残しておく。だから、これは自分に言い聞かせるための言葉でもあるのですが、もっと気軽に書いて、投稿していいんですよ。” と「コンテンツ」を前にした主体の「言語化」によって享受される何かを好意的に評価している。ここで彼が「投資」という表現を使った時点で、それがラカンの「対象a」とは全く別のものを指していると考えうる余地は一切残されていない。ラカンの「剰余享楽」が他でもないマルクスの「剰余価値」を念頭に案出されたものであった事実を思い出せば十分であろう。
以上を踏まえると、私が具体的な執筆の作業を通して明らかにした「前ゲシュタルト段階」と、 tunacan 某の麗らかな「言語化」礼賛にて価値を持たされていた「対象a」は、ほとんど同じものであることが理解されたろう。ほとんどと留保を置いたのはほかでもない、詩や音楽を産み出すべく定められた藝術家ならば躊躇なく「霊感」と呼ぶに違いないそれは、具体的な創作の道半ばに在る者がなんとか捕まえようとしている「前ゲシュタルト段階」の感覚と同じではあっても、「つまり乳房、糞、眼差し、そして声」として生身のリアリティを煽情する「対象a」とは別のものであるに違いないからだ。
と書かれてもまだ納得できないならば、仕方ない、ジャン=ジョゼフ・スュランの筆による素晴らしいダイアローグから引用しよう。
何度読んでも身が打ち慄える名文であり、やはり藝術というものは真なる意味での一神教徒にしか担われ得ないと思わされるわけだが(周知のとおり、ラカンが「剰余享楽」の袋小路を超過するものとして見出したものはまさに神秘家による「神への恋」であったし、その歴史的体制=西欧の内部における実践者として見出されたのはアビラのテレジアおよび十字架のヨハネだった)、ここで理路を焦点化しよう。本稿の冒頭で引いた中井久夫氏は、執筆者の創作過程における苦衷を明らかにしたエッセイの中で “むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。” と述べた(そして当然ながら、彼の試論には神秘家が体験する「乾いた不毛」に関する言及も含まれている)。つまり、作家にとって必要不可欠なものとして中井氏が位置付ける「文体の獲得」とは似て非なるばかりか真逆ですらある “個人の日記、ノートの類” の記録を、 “ある意味で、未来の自分への「投資」として、何でもいいから書き残しておく。だから、これは自分に言い聞かせるための言葉でもあるのですが、もっと気軽に書いて、投稿していいんですよ。/もし仮に、いまあなたが他の誰かに気後れしたり、文章に自信が持てなくて自分の下書きを引っ込めようとしているのなら、それを「もったいない!!」と思えるようになってほしいな。” となにか軽佻浮薄なセミナーの講師ヅラで奨めてみせるのが tunacan 某なのだ。
ここにおいて鮮明化された、執筆および創作における「前ゲシュタルト的」感覚の評価如何によって、その者が蔵している言語観の真価が否応なく浮かび上がらざるを得ない。一方の者(中井久夫氏の試論を引く私)は、小説執筆や楽曲作成の過程で不可避的に失われざるを得ない感覚として「前ゲシュタルト段階」を扱っているが、もう一方でどれほどの年数を閲しても自らの作品を出すどころか他人様の作品をダシにして胸の内にあるねっとりしたものをなすりつける奇癖を常態化させ続けている tunacan 某のような者は、「前ゲシュタルト段階」を文字に還元したにすぎない(中井久夫氏の理路を踏まえるなら、その過程はとりもなおさず “貧困化” の過程を含んでいる)記録物を積極的に蓄え・整え・他人に提供すべきものとして認識してすらいる。そこにあるのは「あの映画スゴかったけどうまくコトバにできないなぁ、ぅうん、とりあえずツイートしちゃお。後で読みかえすとき役に立つしネ」程度の楽観であり、これは2024年現在において宿痾化している言論氾濫がもたらす様々な悪しき症候を無視しなければ保持不可能な態度ですらある。 tunacan 某のごとき現実を見ない幼稚な者が垂れ流す言論が現今の日本語圏においてどのような頽落に加担しているかなどは今更述べるまでもないし、正直なところ私などは「どれだけ言語表現をナメる気だ?」と正面切って睨んでやったほうがあちらのためだとも思うのだが、しかし侏儒に説教したところで何の得もない。このような痴態を note や X(前Twitter)上に休むことなく垂れ流してくれている tunacan 某の勇気を祝福し、私としては先述のとおり彼と同種の輩どもを「治験用アカウント」または「無料モルモット」として今後も生体実験に利用させていただくのみである。
以上の内容で、既に『数分間のエールを』の新入りに対し筆者が抱懐するところの大半は明らかにされたろう。彼のブログの内容を仔細に引用してあれこれ書こうとは思わない。単純に面白くないからだ。 “「自分に文才がある」と思い込んでいたことがそもそもの間違いであり、自分がバズっていたのは、コンテンツ側の力を借りていたに過ぎなかった。自分は、この四年弱で「この人の書く文章が読みたい」と世間に思わせられるだけの力を身に付けることができなかったのだ” という彼一流の嘆き節でさえ、ひとつ前の彼がぶち上げた “齢27に及んで何一つとして生み出すことができていない“ ・ “それは、俺が生まれてきてから一度もなにかに真剣になれたことがないからだ” という一生懸命のメソメソぶりの類型を寸分も出るものではない。しかし同じ映画を観てそっくりそのまま同種の感想を書いてしまうとは、彼らの個性は一体いかなる坩堝で溶かし尽くされてしまったのだろうか? と真顔で心配せざるを得ない。世のオタクくんたちを見ていて私のような凡夫が真っ先に驚かされるのは、彼ら彼女らは藝術を愛好する者にとっての敵である「均質化」への抵抗力をまったく持ち合わせていないどころか、むしろ積極的に迎合し、世間が要請するところの「均質化」された人間の姿に積極的に身を沿わせているように見えることだ。いったいどのような努力をすればそこまで没個性な人生を受け容れてしまえるのだろうか? 彼らのように世界の好ましからぬ精神性に唯々諾々と付和雷同し続ける人間の姿さえ、響アンナ先生は「This is 個性!」とギターを鳴らしながら全肯定してくれるとでも思っているのだろうか? 桜庭ローラでさえ初日の遅刻の件は第57話あたりでしっかり清算し、別様に堅固な個性で自身を再成形していたというのに?
さて、面白くもない修辞疑問は止してまとめに入ろう。本稿で明らかにされたのは、あらゆる次元での鍛錬が必要とされる言語表現の深奥を測ることなくネット上での放縦惰弱に最適化された御託宣ばかりを撒き散らす、現今において最も貧しい言葉の遣い手たちの生態そのものであった。そしてこれはラカンですらなくフロイトの定式だが、金は糞で糞は金なのである。藝術家として自身の「前ゲシュタルト的」感覚に立ち向かうこともなく、 “未来の自分への「投資」として、何でもいいから書き残しておく” ことを称揚し、依然として「コンテンツ」の感想などをネット上に垂れ流すことで何者かになれるとでも思っている tunacan 某の如き輩は、フロイト=ラカンの理論に準えて分析すれば、自分にとって最もリアルなもの=糞を必死に溜め込み続けている者だと言いうる。「対象a」が主体をして「つまり乳房、糞、眼差し、そして声」のリアルを享楽せしめるものであることは既に述べた。である以上、 tunacan 某が『ブログやnoteは「記憶のセーブデータ」を作る行為なんだから、どんどんやったほうがいい。』という表題の涙ぐましい託宣で表明したのは、自分の糞を愛し・その糞を他人に薦め・他人の糞をも食いたがる、「対象a」の剰余享楽に最適化された人間たちが蝟集する経済圏での道徳であったのだ。そのようなステイトメントとして、彼の書き物は完全に首尾一貫している。あらゆる社会的なものごとを「自己」の精神衛生の内部においてしか処理できなくなってしまった彼のような類の人間(←このように飼い慣らされた人間の生態を最も端的に表すものとして、「自分の機嫌を自分で取る」という惹句がある。筆者はこの惹句が巷間持て囃されていたのを見るにおよび、「つい最近まで薄っぺらなストア派関連書を読み漁って皇帝気取りかと思ったら、今度は自分だけの宮殿に引きこもって道化師プレイか。よっぽど自我のイメージが安定しないんだな」と半ば呆れてしまったのを憶えている)にとって、窮屈な日常のなかで「リアル」を担保する縁は、もはや自分の内部から出てきた糞=「対象a」しかないのだ。そして tunacan 某と同様の心性を備えた小説家ウォナビー(しかしまだ一作さえ完成させたことがない)の子もまた、『数分間のエールを』という他人様が作ったものをわざわざ自己のメソメソのために利用せずにはいられない類の人間だったのである。
ここで筆者が前にしているのは、21世紀の食糞嗜癖者《21st Century Scatophilic Men》とでも呼ばれるべき一群である。読者におかれてはぜひ、キング・クリムゾンのあのリフを鳴らしながら本段落を読んでいただきたい。21世紀の食糞嗜癖者たちは、アニメや映画や漫画や小説や、それらをダシに自分達でこしらえた二次創作物まで含めて、あらゆる外的な刺激を自身の内面においてのみ処理しようとするのだ。何故なら彼ら彼女は最初から自身の内側しか見ようとしないし、外的なマターに対しては端的に無力だからだ(からこそ、『数分間のエールを』の彼がかつて書いたことのある「自分との戦い」という表現の欺瞞性が際立つ。彼が外側の世界に属する事象に戦いを挑んだことが一度でもあるのなら、ぜひ教えてもらいたいものだ。そうでなければいちいち「自分との」と対象を限定する接頭辞を加えなければならなかった理由がまったくわからなくなる)。だからこそ彼ら彼女らは自分の中から出てきた糞=「対象a」がもたらすリアリティだけを切実に希求するし、他人の糞=「対象a」すらも積極的に摂取しようとする。なぜならそれは他人のものでありながら同様に肛門から排泄されたものであり、その意味では同一カテゴリに属する以上、心置きなく消費可能であるからだ。Tool が「恐怖接種」という素晴らしい表現で謂った心的機制を、彼ら彼女らは全く欠いてしまっていると言ってよい。なぜならそこで求められているのは「自分と似ている誰かの糞」であり、「誰かに似ている自分の糞」でもあるからこそ他人と共有可能にもなる。 tunacan 某の “これは自分に言い聞かせるための言葉でもあるのですが、もっと気軽に書いて、投稿していいんですよ。” という文言は、まさにこの流通経路確保のメカニズムを正確に表現している。このようにして集められた金=糞を共有しながら、彼ら彼女らは note や X(前 Twitter)上で連日連夜、心ゆくまでの饗宴に耽るのである。「これはボクの中から出てきたモノなんだ! すっごくリアルな味がするなあ! あっ、これはあのアニメを観終えたあとのやつ! つらいなあ! すっごくつらくてリアルな味がするなあ! ねえキミがこのアニメを観たころのやつをちょうだいよ! おいしい! おいしい! これがキミのリアルなんだね! すっごくボクのと似ているなあ! キミもボクと同じなんだね! はい、今度はボクのやつをおあがりよ! キミならおいしく食べてくれるはずだから! いやあ、つらかったけどちゃんと外に出しておいてよかったなあ! ねえもっとみんなのリアルを共有しようよ! そうすればボクらもっとわかりあえるはず! 言語化ってステキだなあ、みんなでみんなの感動やつらさを分かち合えるんだもの! ボクたち、ずっとここにいようね! みんなの中から出てきたリアルを大事にしながら、いつまでもなかよくしようね!」このように燥ぎながら、食糞嗜癖者たちは口元を黄金の輝きで染めてゆくのである。
さて筆者は不幸にして、極めて凡庸な生き方しかできないため、今夜もどこかで行われつつある食糞嗜癖者たちの宴の殷賑に身を連ねることは一生涯ないだろう。私は私で、自分が知っている限りの野菜や魚や肉や茶葉がもたらす旨みで日々の暮らしを彩るのみだ。
と書いているうちに、今日も通勤電車は私の住居の最寄駅に到着する。「列車は必ず次の駅へ、では舞台は? あなたたちは?」という、詩としてのキラめきを根本的に欠いているばかりか端的に意味不明なこのキャッチコピーも、私によっては新たな意味を持たされうるだろう。つまりこのように凡庸な生活の中にも、創造的な瞬間は必ず訪うという意味である。
明日は遅番で、今日より3時間遅い出勤なので、今夜は余った時間すべてをミキシング作業のために使うことができる。そう、召命を受けた者は、そもそも自身に課せられた務めを放棄するという選択肢すら持たない。単に自分の住居に帰宅すれば、吸い寄せられるかのようにしていつのまにかラップトップの作業画面を前にして数時間経過しているからだ。なんと凡庸なことだろう。だから私は成人してからずっと何かを作り発表し続けるくらいのことしかできないのだ。私が21世紀の食糞嗜癖者たちのように特殊で最先端を行き見栄えのする生き方を身につけられなかったことは、まことに不徳の致すところとしか言いようがなく、深く恥じ入る次第である。
付録:
↑西暦2016年時点での私が「小説を書くこと」について述べていたもの。まあなんというか、完璧な内容である。「創作ができないワタシ」の姿をかわいそぶることにもはや羞恥すら覚えなくなった輩どもは必ずこれを読むとよい。
もっとも勿論、本当の辛さは「小説が書けないこと」よりも「それでも、どうしても書けてしまうこと」のほうに存ずる。実際私は、この記事を書いていたまさにその夏に『アイカツスターズ!』から召命を受けており、3年後の夏の肉体労働の最中に突如として『χορός』を着想し、総計64万字の小説として完成させるに至るのだから。
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