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明暗

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2016年6月の記事一覧

綺麗な温泉をざぶざぶと

 寝る前に一風呂浴びるつもりで、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻彼女から聴かされたこの家の広さに気がついた。意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段を降りたりして、目的の湯壺を眼の前に見出した彼は、実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。
 風呂場は板と硝子戸でいくつにか仕切られていた。左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽のほかに、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯に比べて倍以

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抱き合うように彼の頭の中を通過した

 靄とも夜の色とも片づかないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞たる夢であった。自分の四辺にちらちらする弱い電灯の光と、その光の届かない先に横わる大きな闇の姿を見較べた時の津田にはたしかに夢という感じが起った。
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と

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表へ出た三人は濠端へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜を仰いだ

 小林の所作は津田にとって全くの意外であった。突然毒気を抜かれたところに十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向って躍った。憎悪の電流とでも云わなければ形容のできないものが、とっさの間に彼の身体を通過した。
 同時に聡明な彼の頭に一種の疑が閃めいた。
「此奴ら二人は共謀になって先刻からおれを馬鹿にしているんじゃないかしら」
 こう思うのと、大通りの角で立談をしていた二人の姿と、ここへ来てか

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やッぱり実戦でなくっちゃ君は悟れないよ

 小林は旨く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際どい所へ入り込まなければならなくなった。
「例えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところ

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この三人を巴のように眺め始めた

 この時お延の足はすでに病院に向って動いていた。
 堀の宅から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、そこに丁字形を描いている大きな往来をまた一つ向うへ越さなければならなかった。彼女がこの曲り角へかかった時、北から来た一台の電車がちょうど彼女の前、方角から云えば少し筋違の所でとまった。何気なく首を上げた彼女は見るともなしにこちら側の窓を見た。すると窓硝子を通して映る乗客の中に一人の女がいた

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それが男の嘘というものです

 話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。夫人はどう考えてもお延にそれを気どっていて貰いたいらしかったからである。
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけになお答え悪くなった。

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津田は一人の女を愛していた

 津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。そうしてその理由はすでに小林の看破した通りであった。だから彼はこの誤解から生じやすい岡本の好意を、できるだけ自分の便宜になるように保留しようと試みた。お延を鄭寧に取扱うのは、つまり岡本家の機嫌を取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。利害の論

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勢の運ぶがままに前の方へ押し流された

 お秀の言訳はお延にとって意外であった。また突然であった。その言訳がどこから出て来たのか、また何のためであるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵のごとく彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇を衝こうとした。三度目の嘘が安々と彼女の口を滑って出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってる

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そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ

 単に病院でお秀に出会うという事は、お延にとって意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、また意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後でも、それが偶然の廻り合せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果を迹付けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態を

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彼等の背負っている因縁は、自由に彼等を操った

 三人は妙な羽目に陥った。行がかり上一種の関係で因果づけられた彼らはしだいに話をよそへ持って行く事が困難になってきた。席を外す事は無論できなくなった。彼らはそこへ坐ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
 しかも傍から見たその問題は決して重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のも

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お延の姿が突然二人の前に現われた

「解りました」
 お秀は鋭どい声でこう云い放った。しかし彼女の改まった切口上は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦に応ずる気色を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
 お秀は津田の肩を揺ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」
「なぜ嫂さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」
 津田の頭に一種の

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じっとそれを見つめていたお延の眼に涙が一杯溜った

 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。
 男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪くなる。今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。そうして、昔から云い

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お延の頭に石火のような暗示が閃いた

 それは叔父が先刻玄関先で鍬を動かしていた出入の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外した後、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
 まだ学校から帰らない百合子や一の噂に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑り込みつつあった。
「慾張屋さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
 叔母はわざわざ百合子の命けた渾名で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様

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小さな嘆美者

お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に基く牽引性以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。
 若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に

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