それが男の嘘というものです
話しているうちに、津田はまた思いがけない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないでおく方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気がついた。夫人はどう考えてもお延にそれを気どっていて貰いたいらしかったからである。
「たいていの見当はつきそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけになお答え悪くなった。
「そこが分らないといけないんですか」
「ええ」
津田はなぜだか知らなかった。けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」
夫人は笑い出した。
「今さらあなたがそんな事をしちゃぶち壊しよ。あなたはしまいまで知らん顔をしていなくっちゃ」
夫人はこれだけ云って、言葉に区切を付けた後で、新たに出直した。
「私の判断を云いましょうか。延子さんはああいう怜俐な方だから、もうきっと感づいているに違ないと思うのよ。何、みんな判るはずもないし、またみんな判っちゃこっちが困るんです。判ったようでまた判らないようなのが、ちょうど持って来いという一番結構な頃合なんですからね。そこで私の鑑定から云うと、今の延子さんは、都合よく私のお誂え通りのところにいらっしゃるに違ないのよ」
津田は「そうですか」というよりほかに仕方がなかった。しかしそういう結論を夫人に与える材料はほとんどなかろうにと、腹の中では思った。しかるに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」
お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。この二字の前に怪訝な思いをしなければならなかった津田は、一方から見て、またその皮肉を第一に首肯わなければならない人であった。それにもかかわらず彼は躊躇なしに応諾を与える事ができなかった。夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気がつかずにいるようなら、その時はまたその時でこっちにいくらでも手があるんだから」
津田は黙ってその後を待った。すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「あなたは清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の嘘というものです」
嘘を云うつもりでもなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気がついた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、あなた」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」
夫人の論議は普通のそれとまるで反対であった。と云って、支離滅裂はどこにも含まれていなかった。彼女は得意にそれを引き延ばした。
「ほかの人には外側も内側も同なじとしか見えないでしょう。しかし私には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込んでいるとしか考えられませんもの」
「奥さんは初手から私に未練があるものとして、きめてかかっていらっしゃるから、そうおっしゃるんでしょう」
「きめてかかるのにどこに無理がありますか」
「そう勝手に認定されてしまっちゃたまりません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。あなたと私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくらほかの人を騙す事ができたって。それもあなただけの事実ならまだしも、二人に共通な事実なんだから、両方で相談の上、どこかへ埋めちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」
「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活かして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒な事をしろと私がいつ云いました」
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」
津田の眼は好奇心をもって輝やいた。
『明暗』百三十八