kawaii
一度、陸橋の上から飛び降りそうになった事がある。それは自殺をしようとした訳ではなく、下を走っている車に飛び乗ろうとしたのだ。散歩中に疲れてしまい、自宅方面に向かって走る車の上に乗って帰ろうという魂胆だった。アクション映画で見る光景だが、その時はそれを真剣に出来ると思っていた。道路を行き交う車を上から見下ろしながらタイミングを計っていると、通りかかった老夫婦に止められた。自殺しそうな男を止めたはずの老夫婦は、「ええ、大丈夫です。車で家に帰ろうと思って。え?ああ、そうですね、生きてたら色々ありますね。やっぱ大きいバスかトラックじゃないと無理かな。」と捲し立てられ、さぞ驚いた事だろう。自殺じゃない事を必死に説明したのだが、なかなか解放して貰えず、もうこの場合は自殺未遂という形を取った方が、まとまりが良かっただろう。
この辺から鬱病と診断されていたものが、躁鬱病に変わった記憶がある。今まで布団から起き上がれなかった男が、急に断捨離をして興奮していたり、何週にもわたり子供と遊びに行く計画を立てたりした。躁になるといつも病気が「治った」と思い、薬を「止めよう」と思う。病識がないってやつだが、これを何回も何回も繰り返してしまう。自分でもバカなんじゃないかと思うが、次の軽躁時には、また治ったと言い出すだろう。そんな教科書通りの症状に翻弄されるが、これも教科書通りに躁は本人にとってはとても気分が良い。鬱には何としてもなりたくないが、躁には何遍でもなりたいと思う。あの万能感は病みつきになるが、あくまで「感」だけで、自身には何の能力もないので、結果何も成し遂げられないバカっぷりがまた良い。色々なアイデアも浮かぶが、誰からも相手にされない所も可愛いくて仕方ない。そこから可哀想に、また鬱に移行して行くので、もう自分ながら抱きしめてやりたい。
医者は躁の方を重要視している様で、病識がなく何をやらかすか分からない所が危険なのだろう。定期受診でも鬱より躁の事を聞かれる割合が高い気がする。落ち着いている状態での受診は良いが、軽躁時に受診となると、「治った」と思っているので、医者との会話も噛み合わなくなる。何なら「治った」事を受け入れてくれない医者に対して、苛立ちや不信感を抱く様になる。厄介な患者である。本当に可愛い。
もう可愛いと思えば何でも可愛く思えて来る。俺はこの病気になってから、こんなにも可愛くキラキラしてる日々を過ごして来ていたのかと驚きを隠せない。最初に紹介した陸橋のエピソードも何だかすごく可愛く感じる。もうこの病気は、治る治らないの問題ではなくなった。そんなものはもう古いのだ。2025年、俺は「躁はkawaii」を提唱する。
「何だ何だじゃあ俺たちは可愛くないと言うのか?」と鬱の方からお叱りを受けそうなので、鬱に関しても少し。鬱は言うまでもなく、可愛いのだ。言わずもがなである。試しに鬱の症状を調べてみたらいい。全部可愛いではないか。ただ他人に可愛いと思われても意味はない。自分で思わなければいけない。例えば、体が動かない時、頭が働かない時、「ああ、自分は何て可愛いんだ。」と思う事が重要だ。おそらく脳がビックリすると思う。あと、鬱はアンニュイな雰囲気を醸し出してて、どこか色っぽさを感じる。眠れない自分を「セクシーだな。」と思い込んで欲しい。改めて2025年、俺は「躁はkawaii」、「鬱はkawaii & sexy」を提唱する。