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四日市における戦争と死者に関わる碑・施設の諸相  慰霊・追悼・記念(1878~2011) ④

4 太田覚眠と怨親平等・敵味方供養

 戦争と死者、特に仏教と戦死者を考えるにあたってしばしば指摘されるのが、怨親平等と敵味方供養である。四日市では、太田覚眠が1925年(大正14)に刊行した『露西亜物語』【註36】の中で、怨親平等と敵味方供養について言及している。
 太田覚眠は、四日市に生まれ、東京外国語学校露語科を卒業後、四日市市内法泉寺の住職となったが、1903年(明治36)、西本願寺の命でシベリア開教師としてウラジオストクに渡り、日露戦争、ロシア革命、シベリア出兵という激動の時代をロシアで過ごした。覚眠を一躍有名にしたのは、日露戦争時の日本人居留民救出である。戦争勃発による帰国命令が下る中、取り残された奥地の居留民800人を連れてウラル山脈を越え、ドイツを経て、12月長崎に寄港した。この出来事は、全国の新聞で報じられ、覚眠自身もロシアでの体験を、国内の講演会や執筆活動を通して日本人に伝えた。
 覚眠によるとシベリア派遣の際に、浦潮本願寺は戦病死者の回向供養を行い、墓地内に忠魂碑を建立し、本願寺と居留民会により招魂祭が毎年執行されたという。『露西亜物語』には、こうした碑をめぐる経緯と共に、覚眠が、この忠魂碑をめぐって、日本とロシアの戦死者を同様に供養すべきと意見を述べたことが記されている。かつて薩摩の島津弘義父子が、高野山に建立した朝鮮人の供養塔に感銘を受けたこと、親鸞や日蓮が敵対する者のためにも祈ったことに触れながら、次のように述べた。

私は朝鮮役の碑の例を以て、宜しく敵味方双方の為めの忠魂碑として建立すべしと云ふ事を主張した。さすれば此碑が日露親善の一媒介と成るだらうと云つたが、軍事費の中には敵の為めに忠魂碑を立てる金は無いと云ふ事で、薩摩守の真似は出来ないのである。外交と云ひ軍事と云ひ随分窮屈千萬なものだと私は思つた。(『露西亜物語』)

 怨親平等・敵味方供養の系譜は、戦争死者供養と仏教の関わりを考える際に、しばしば注目されてきたが、日露戦争期を山場として、その後下火となっており、その影響は限定的との指摘もある【註37】。
 覚眠の怨親平等・敵味方供養の主張が、当時、地元四日市の人びとにどの程度の影響を与えることができたのかは不明であるが、ここでは、シベリアに出兵した兵士とも深くかかわった浦潮本願寺の僧侶が、怨親平等・敵味方供養を主張していたことに注目しておきたい。

                         (中島久恵)

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写真は、法泉寺の太田覚眠師顕徳碑。1955(昭和30)年に建立され、1993(平成5)年に境内の現在の場所に移設された。

④註36-37

【註36】 太田覚眠『露西亜物語』丙午出版社 1925年
【註37】 藤田大誠「近代日本における『怨親平等』観の系譜」 (特集 日本人の霊魂観と慰霊)明治聖徳記念学会紀要(44)2007年 なお、藤田氏は、松本郁子「日露戦争と仏教思想--乃木将軍と太田覚眠の邂逅をめぐって」に触れ、太田覚眠が「高麗陣敵味方供養碑」に影響を受けたことに言及している。


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