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レッツ解脱☆(9日目)

寝る準備をしていたのですが、明日は思いっきり朝寝坊したいので今記事をアップしておきます

※今回はそれなりに長文になります、内容はごく真面目です
お時間のあるとき、気の向いたときなどにどうぞ


……突然ですが
私は、人の内側にある心がガラスケースに入っているかのように見えすぎてしまう人間です

そこで、これは同じように「見えすぎてしまう人」が一体どう対処しているのか知りたいという話なんですけれども

こちらが見えているその人の内側と、外側のペルソナが真逆だった場合――もっとわかりやすく言うと、本当は常にテンションLOWでかなり冷めた性格をしているのに、人と接する時だけ常にアクセル全開でハイテンション、明るく元気よく振る舞っている人と接するときとか、ですかね

当然、相手は自分の内側を見られているだなんて思っていません、最初は
普通は繕っていれば、隠していれば、周りからは見えないであろう部分だからです

私個人の主観を一言でいえば、「無理がある」に尽きます

そんな……ご自分のことがお嫌いなのですか?
それとも、人の反応が怖いのですか?
もしくは、自分の素が人を傷つけてしまうことが怖いのですか?

たぶん、全部なんでしょう

その人自身に繕っている自覚があればまだ対処のしようもあるのですが、自分は繕っていないと思い込んでいる場合が最も厄介です

前の記事にも少し書きましたが、人は場面ごと、相対する人によってもさまざまな仮面を被って生きています
仮面の四、五枚、シーンごとに使い分けるのが大人というもの
そう仰る方もいるでしょう

子供の頃の私は、その人を見た瞬間、「この人嘘ついてるよ、本当はこう思ってるよ、これから◯◯するつもりだよ」などと、まるでエスパーのようにズバズバ言い当てていました

子供の頃から洞察力がカンストしていたのであって、別に霊感ではありません

人にわからないことがわかる、むしろなぜ周りの人達にはわからないのか
言い当てられた人が慌てる様子が単純に面白かったからでもあり、実際に当たったことで「なぜわかるの?」と驚かれることもしょっちゅうで、すっかり有頂天かつ得意になっていたからなのでしょう、本当に馬鹿な子供です

ところが、大人になるにつれて困ったことになってきました

テレビが見られないのです

出演している人達の関係性がわかってしまう
本当は何を考え、誰に対して何を思い、素はどういう性格をしているか、普段どんな表情を浮かべることが多いのか、どんな人と付き合い、何が好きで何が嫌いか、本当の強みはどこで思わぬ弱点とはどこなのか、何がその人にとっての落とし穴になりうるのか、どこでどう人生に躓くかなど、場合によっては行き着く未来まで予測可能です

私にとって最も堪えたのは、「これから自殺する人がわかってしまったとき」ですかね

その方は、大家族の貧乏アイドルとして売り出されていた方で、バラエティーによく出演していました
世間ではあんなに明るかったのに、何故……と言われていましたが、私にはその人の笑顔が「助けて!」と号泣しているように見えたのです

「駄目だ、この人はこのままだと死ぬ」と危機感を覚えていたので、世間の声と自分の見ているものとのあまりの違いに愕然としましたね

テレビは今でも、できるだけ見ないようにしています
ポンヌチャン(私の旦那さん)は見ますが、私はニュースくらいで、それもネットでチェックするのが日常です

それでも、目にする機会の多いニュースというのはあるのですよ
日本では明るいニュースなので、比較的苦にならない大谷選手のことですね

たとえばちょっと前ですけど、ご結婚されたときは日本中が盛り上がりました
そっとしておけばいいのに、と思ったことは内緒です

どんな人が奥さんなのか、わたくし人に予想をきかれたのですよ
そのときの私の答えはこうでした

「うーん……大谷さん自身に雰囲気が似ている人かな。顔もたぶん似てると思う。背が高くて肌色も小麦色寄りの健康的な美人。大谷さんと競技は違っても同じスポーツ畑の人で、料理はたぶん必要に応じて腕を上げていくだろうけど、一般人とさほど変わらないものを作る人で、俗に言うインスタ映えを気にするようなタイプではない。朗らかな笑顔が似合っていて浮ついたところがなくて、信じられないほど感覚が普通の人なんじゃないかな。大谷さんの恋愛感覚がまともなら、そういう女性を選んでるはずだよ」

そして、もちろん大谷選手の感覚はまともでした

もちろん、情報はご結婚されたこと以外、何も知りません
奥さんのことが報道されてから、「なんで? 誰なのか知ってたの!?」と驚かれました

※今でも奥さんの名前が出てこないです、すみません

……そんなわけで、ポンヌチャンからだけでなく、今まで色んな人から散々エスパー呼ばわりされてきていますが、人の性格を洞察力で読み取れば、どんな人を選ぶかまである程度推測できるようになるのですよ
(この場合は大谷さんの性格ですね 「私もそういうの解ります」という方、いらっしゃいませんか?)

今までたくさん人生相談され、困ったときの駆け込み寺――振り返ってみれば、そんなふうに思っている人たちも結構いたように思います
でも過去の私は、この「読心」ともとれる部分を完全に持て余していました

人の本心が見えすぎる、心の声が聞こえすぎるというのは、捉える側の精神面が未熟な場合は地獄です
一時期は人間が大嫌いになり、人との関わりを完全に断ってひきこもったほどです

ネットで手軽にできる性格診断が流行している最近では、精神分析や人物考察など、今や当たり前にできる人が多い世の中になりました
私は早い話、世の中がそうなるずっと前から人の中身を見続けていたわけですが……でも、わかったから何だというのか、とよく思うのですよ

一番知りたいのは、人を理解することの先にある「接し方」なのに

ここで、冒頭の疑問に戻ります

自分に見えているその人像と、その人が見せたい自分像が180度真逆だった場合、皆さんはどうしていますか?
私ほど極端なケースではなくても、人によってはあることだとおもうのです、こういうことは

子供の頃の私なら、迷わず本能の赴くままにその人の仮面を看破したでしょう
しかし、人のペルソナというのは、「自分にも他人に対しても優しくありたいため」に被ることもあるのです
それを無遠慮に突き破るというのは、ちょっと行儀が悪いというもの

若い頃に見た映画の中に、こんな一節がありました
「本当に恐ろしいのは、心の内側を見つめられることだ」

「太陽と月に背いて」という映画に出てくる、若きアルチュール・ランボーの台詞です
初期のレオナルド・ディカプリオ主演の映画で、けっこう有名なのではと思うのですが、私がこの映画を見て一番心に残ったのがその台詞でした

「相手は自分の内側を見られているだなんて思っていません、最初は」と書きました

ところが……
だんだん気づいてくるのです、見つめられていることに

当然、相手は緊張します
私のことが怖いからです

書き綴ってきて気付いたのですが、これは、私がどうこうできる問題ではないのですよね
あくまで相手側の心の問題であって

ただ、そういうときにどう接するのが正解なのか、課題は残ります

その人の仮面に対して感想を述べれば、その人はずっと仮面を被り続けなければならず、安心する反面、不安が消えたり癒えたりすることもありません

かといって、その仮面を無作為に突き破ることも間違いなのですよ

私には、その人が自分から仮面を脱ぎたくなるまで待つことしかできず、そして、私の「見えていないふり」も長くは続きません

ちょうど身の周りに今そういう方が一人いて、まだ誰もその人の本性に気づいていないようなのですよね
接しなくてはならない機会はそう多くありませんが、また壁にぶち当たっているところです

北風と太陽の話の通り、暖かく接していれば、やがて仮面を脱ぎたくなるものなんでしょうか
だいたいの場合、緊張されて会話がぎこちなくなるか、テンション高く妙に持ち上げられて困ることになるのです

なんとか怖がらせずに済む良い方法はないか、今も探しています

ネット上だと、顔が見えないぶん皆さん素の状態である場合が多いので、そういう悩みは出にくいのですけどね

(何か良いお知恵をお持ちの方、ご意見などありましたら、ぜひお気軽にコメントして頂ければ感謝いたします)

今はこのnote以外どこにも小説を置いていませんが、私みたいなものが一体どんな作品を書くのか気になるという方、もしかしたらいらっしゃるかも……と思っているのですがどうでしょうね

ええと……そんなだいそれたものではなく
私自身は私が書いたものを一番楽しめる読者ですが、少なくとも私の作品は(モノにもよりますが)、今の暗い時代に即したものではないですね

ただ、書いたものを発表すると必ず何かしら感想を頂けていて、特に心理描写や情景描写を褒められることが多かったように思います

幼い頃から本の虫で、アウトプットするスピードがより速いのが文章だったからか、小説を書くことが私にとっての創作の始まりで、引き込まれる、泣きました、尊敬します、景色が見える、そんな勿体ない言葉の数々を頂いてはきました

何もかもぶん投げたくなる一瞬ではありますが、他人の「相談するならこの人」ポジションに実際されてきた人生でもあり、「いっそ僧侶でも目指せばいいのか」と思ったこともあるのですけど……まあ、いずれにせよ言えることは、私はただの一主婦でいる方が性に合っているということです

もちろん、クリエイターの世界で何者かになった人、なれた人、というのはほんの一握りで、でも、世の中にいるごく普通の、別に何者でもない誰かがそういう経験をしていることも、とりたてて珍しいことではなかったりするのがこの世というところだと私は思っています

ですから、人からの評価をいったん全部捨てて結婚し、趣味で気楽に書き続けているのが今なのです

昔は上昇志向の鬼でした
自己実現しない人生に意味などないと本気で思っていましたし、サークルを組んでいたのですが、趣味の範囲で楽しみたい人のことを向上心のない人間とみなし、仲間であっても平気で切り捨てていくような人間でした

自分の書くもので誰かを救いたい、そう思っていながらです
なぜなら、「君の書くものは決して一般受けはしないかもしれないけど、不特定多数の誰かにとっての救いになるものを書く」という友人の言葉を信じていたからです

日常のありふれた幸せに感謝しながら生きていく
突き詰めて考えれば、それが私本来の望みでして
思い返すと、あの頃はいつだって不幸でした

ただ、今でも書くことによってしか救われない部分があると、前の記事で書いたこととは矛盾しますよね
何故そうなってしまうのかというと、先に述べた通り、旦那さんであるポンヌチャンにも理解されない過敏な面が私にあるからでもあり、そんな私を救えるのは他の誰でもない私自身だけだからこそ書くしかないという事情もあるのです

ともあれ、私が今の自分になるために、ポンヌチャンは必要な人でした
ポンヌチャンはとても心の温かい人で、今でも学ぶことがたくさんあります
人としてのあたたかさ、労りの心や思いやり、そういったものは、全くないわけではないですけど、過去の私にはずいぶん足りない部分だったのです

私にはポンヌチャンからの愛が必要ですし、ポンヌチャンにとっても私からの愛は必要不可欠で
そのポンヌチャンとの生活を守りながら、できる範囲で日々考えていることを発信していく

過去の地獄(書いただけには留まりませんのであえて割愛します)に比べれば、今の人生は天国ですね

というより、本当は誰しもが最初から天国にいるのです
自分の人生なんて酷いものだと思っていても、実は天国にいたのだと、より酷い地獄に落ちたときになってから気づく
人ってそういう生き物でもあると思うのですよ

まあ、「地獄には何丁目まであるのかわからず、今いるのは一丁目か二丁目であって、先は十何丁目まであるか、もしくは果てがない」という考え方もできるとは思いますが、物事の解釈というのは基本的に、その人自身の捉え方ひとつで変わるものです

それに気づかない人が、日常生活でいつも不平不満をこぼしているだけなんですよね

なぜそういう考え方ができるようになったのかというと、自分の欲求にしか従わずに書き続けていたあの頃、私は地獄だと思っていたところからさらに酷い地獄に落ちたのですよ

別に私が悪くてそうなったとかではないんですけど、天辺からどん底に落ちなければ見えない景色もあるということです

今回は真面目なお話でした

それはそうと……

俯瞰してみると、こんなアレな文章を書く人間のどこが、「見た目はニューバランス、中身は無印良品」なのですかね

かなり無理があるってもんです

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