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『社会とどうかかわるか 公共哲学からのヒント 』「活私開公」には、外国人の地方参政権という大きな問題が含まれている(環境研究)

 著者の山脇直司氏は、「グローカル公共哲学」の提唱者で、本書はそれを分かりやすくまとめたもの。哲学を広く分かりやすく言語化している小川仁志氏も公共哲学の専門家で、『日本を再生!ご近所の公共哲学』(技術評論社)がある。

 著者は、「滅私奉公」という言葉で公共哲学の必要性を訴える。「滅私奉公に」には、一人ひとりの個人の多様な生き方や考え方を認めず、みんなが同じような考えをもって同じように生きるよう、強制的に画一化してしまう暴力性を秘めている。

 国家に適応した例として、天皇も国の機関として憲法に従い、内閣や議会の決定によって制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説は、軍部や国家主義者により否定され、国民は臣民として天皇に服従すべき(滅私奉公)だと、美濃部の著作を発禁にされてしまった。
 企業に適応した例として、熊本県のチッソが、アセトアルデヒドを製造する過程で生まれたメチル水銀を水俣湾に垂れ流した。多くの住民が神経を冒され、感覚障害や言語障害、多数の死亡者を出した。被害が報告されているにも関わらず、会社は一貫して否定した。当時その会社に勤めていた人は、それに気づいていたが、会社のために、会社に逆らってはいけないという「滅私奉公」の精神から事実を否認していた。
 グローバルに適応した例として、マルクス・レーニン主義を取り入れた旧ソ連や中国の社会主義も、滅私奉公を教義化したものだ。
 連合赤軍もオウム真理教も「滅私奉公」のなせる技とも言えるだろう。政治家の福田赳夫が「世界は二人のために」という歌の「二人のために世界はあるの」というフレーズに不快感を示し、若者に「世界のために二人はあるの」という危害を持てと発言したという。

 「滅私奉公」を否定するため、日本国憲法の自由権、平等権、社会権からなる基本的人権を考察し、以下の指摘をしている。

「私はrightsを慣例に従って、これまで「権利」と綴ってきました。しかし、少なくとも人権に関連するeightsは、利益を連想する「権利」ではなく、理にかなうことを連想させる「権理」と表すべき」

 著者は、友人である金秦昌氏の造語である「活私開公」を「滅私奉公」の反意語とし、文化環境の多様性を認めあうことは、それぞれが自分の文化や流儀にしたがって勝手なことをするのではなく、文化の違いを越えて、みんなが共有できる普遍的な公共善の必要性につばがる。ここでは触れられていないが、 「活私開公」には外国人の地方参政権(国政への参政権は別にして)を許すか許さないかの問題が潜んでいる。
 おそらく著者は、「活私開公」の立場から許すということになるのだろうが、この問題は地域を二分する大きな問題となるだろう。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。