【感想・紹介】クジラは歌をうたう
死に触れるとその後の人生観って結構影響されますよね。
普通の高校生なら生きることや死ぬことについて深く考えるより、今を楽しむというのがほとんどでしょう。
この作品の主人公は好意を寄せていた女の子を病気で失います。しかし長い時間が経つことで大きな喪失から「日常」に戻っていきました。
身近な人を亡くした時、その悲しみ、苦しみ、寂しさから本当に立ち直るには何が必要なんでしょうか?どう過ごすのが故人のためなんでしょうか?
突然のメッセージ
亡くなった方のブログを折に触れ訪問すること、自分にも経験があります。
今後絶対に更新されないのに過去の投稿をさかのぼって閲覧したり、コメントに目を通したり。
そんな時に新しい投稿があったら直近の考え事なんて吹っ飛ぶのも理解できます。
主人公は仕事でミスを連発してましたが、仕事は仕事なんだからしっかりしろよと思いつつ自分も同じ状況になったら絶対に笑えないと思います。
死んでいることを確認していても、希望が生まれて切なくなってしっかり立てていた足元が崩れて、突風に吹き飛ばされてくしゃくしゃになるでしょう。
悲しみは薄れても無くならないので。
死を悲しまなくなるのはその人の存在をなくすこと?
主人公は再婚した父親への感情も複雑で、母親か睦月かどちらかが存命ならどれだけ苦悩が少なくなっていたのか、と他人事ながら哀憐の情に耐えません。
誰かの死を受け入れたらその人の存在が消えてしまうような気がする、過去のものになって遠い存在になってしまう恐れのような感覚に覚えのある方はいらっしゃるでしょうか。
悲しみに暮れるのは亡くなった方も見ていたらつらいだろうと想像できても、誰も悲しまなくなるのはかわいそう。と悲しみに浸る。
自分が思うに、その悲しみは個人への手向けではなく、自己憐憫です。
心が弱っていれば自分が世界で一番の被害者のような気持ちになるのもめちゃくちゃわかります。むしろ自覚して浸りきるのもアリです(後始末はできるだけ自分でしましょうね)。
死を受け入れるのは、自分ですよね。
つまり、存在をなかったことにしようとしているのも自分だということです。
心の奥底から湧き出る悲しみのままに泣いて眠って目が覚めた時、他人の事情を受け入れたり慮る余裕ができたら、その時が立ち直る準備が済んだということなのだと思います。
悲しみも寂しさも完全に消えることはないでしょう。
そのうち、思い出す顔が楽しかった時のものや安らかなものになって、心に大切にしまわれて、時々ふわりと顔を出して頬を撫でて戻っていく、ただ思い出になる。
それだけです。
周りの人いい人ばっかりじゃん
正直、ブログの更新を見てからの主人公の行動は未練に縛られ、思い込みに振り回され、とてもいい年の大人には思えません。
身近にいたら「しっかりしろー!お前ー!」とハリセンでスパーンとやりたい気持ちを抱えながら悶えてたと思います。
でも、主人公がそんなことになっているのは、当時の気持ちが昇華されず封をされたまま、凝り固まって積み重なっていたからだと思います。
未処理の感情というものは自制心が強い人ほど頑丈に押し込められてしまうので、リミッターが限界になった時はひどく暴走しがちです。
主人公の心に施された封は奔流というべき感情の勢いに破壊され、制御できないまま吹き出していきます。
また、物事というのは「ちょうどいい」時に起こるものだという考え方もあります。
過去のいやな記憶がよみがえる時というのは、脳が問題解決に耐えうると判断した時で、振り返って過去のものにしようとしている。というものもありますね。
そう考えられたら過去の再放送も、自分の成長したタイミングなんだと受け取れるかもしれません。
さて、支離滅裂でイヤイヤ期のこどものような情けない様態を露呈していく主人公ですが、この件以外では真っ当に生活して誠実に人間関係を築ける人間なのでしょう。
そうじゃないと急に連絡してきたやつに付き合って同窓会手配したり、調べものしたりするの面倒事の貧乏くじフィーバーすぎるので。
プロポーズも自分からだし、結婚式の直前で悩みの内容もはっきり相談してもらえなくても辛抱強く待ってくれる婚約者。12年間連絡すら取って無かったのに、会って話を聞いて同窓会を企画したり、最後まで協力する友人達。主人公の様子を察して飲みに誘い、何があったか心配してくれる後輩。
そんないい人たちに囲まれて、立ちすくみながら、おしりをたたかれながら進む情けない主人公をいつの間にか応援していました。
君はこれからも生きていくんだ。
出会って、別れて思い出にして生きて行こう。
今回読んだ本
クジラは歌をうたう 持地佑季子 著
集英社 集英社文庫 ISBN 978-4-087-45782-7