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自由連想の「自由」とは
分析治療では自由連想という方法が用いられます。これは、心に浮かんだことをすべてそのまま話す、という方法です。こうすることで、ふだんは話さないようにしていることや、一瞬、心を過るだけで忘れられてしまっていることを俎上に乗せ、現在の自分を超える可能性を模索しようというわけです。
ただ、この心に浮かんだことをすべてそのまま話す、ということが、日常的な言葉のニュアンスから、「話したいことを全部話す」という意味で受け取られがちかもしれません。ふだんは言えなくて抑えていることを、話したいだけ話して、スッキリストレス発散するという方法なんだな!と。結果的には、そのような効用が伴うこともあるでしょう。しかし、それは実は自由連想の目的ではありません。
もう一度、心に浮かんだことをすべてそのまま話す、という言葉の意味をよく吟味してみましょう。すると、「話したいことを話す」とは言っていないことに気づかれるでしょう。もし、「話したいことを話す」なら、話したくないことは話さなくてもいいことになり、「浮かんだことをすべてそのまま」ということと矛盾してきます。
実際、話したいことを話すということになると、自分の判断で話を取捨選択することになるので、ふだん抑えている鬱憤の発散にはなっても、現在の自分の判断や欲求そのものを問い直すことにはならず、現在の自分を超えていく可能性は抑制されてしまいます。
心に浮かんだことをすべてそのまま話すのですから、話したくないことであっても、話すのが恥ずかしいことであっても、あまりに些末なことで話しても仕方ないと思えることであっても、今の話題と無関係で話す意味がわからないことであっても、頭おかしいと思われそうな荒唐無稽なことであっても、とにかく心に浮かんだ以上は、「こんなことは話せない or 話してもしょうがない」などと判断せず、まずは話してみる、ということになります。
つまり、現在の自分の価値判断や好悪の感情を一時的に抑制し、思い浮かんだ以上はとりあえず話してみるようにするわけです。こうすることで、現在の自分の判断や欲求の背景にある空想や、最初から見ないことにしている可能性などを、再吟味することができるわけです。ふだんはそんなことをすれば日常生活や大切な人間関係をぶち壊しかねないので、とてもそんなことはできません。しかし、分析セッションにおいては、一時的にそれを試してみることができます。そうして分析セッションで垣間見えた自分の新たな可能性や、見えない知らないですませていた世界を生きてみようというきっかけを得るわけです。
しかし、このように述べてくると、少なくとも今現在の自分に対してはずいぶんと制限をかけているようです。今の価値判断や好悪の感情を留保して、話したくなくても思い浮かんだら話さなければならないのですから。選択の自由を奪われているみたいです。「自由」連想なのに、まったく自由ではないみたいです。
自由連想という方法を編み出したフロイトは、患者にそのやり方を次のように説明したそうです。すなわち、列車で車窓側に座っている人が、通路側に座っている人に対して、窓外を流れる景色を説明するようにと。車窓側の人が自由連想する人(患者)、通路側の人がそれを聴く人(分析家)、窓外の景色が心に移り行くよしなしごと、というわけです。この説明でも、自由連想をする人にはあまり自由がなさそうです。なにしろ、説明すべきものはひたすら流れてくる景色であり、何を話すか自分で選ぶ自由はまったくないわけですから。
では、自由連想の「自由」とは一体何でしょう。
それは心の自由です。あるいは、未知の自分に与える自由です。
さきほど示唆した通り、私たちはふだん、今現在のひとまずの安定とまとまりを保つために、心に制限をかけています。考えたら迷い悩みそうなことや、望んだら罰が当たりそうなこと、今ある環境や関係を壊しかねないこと、などなどは、ふと思いついてもすぐに流して忘れたり、夢に見ても夢に過ぎないと看過したりしています。いわば、今現在の自分や状況を維持するために、心に制限をかけているわけです。
これを、自由連想では逆転させます。今現在の自分に制限をかけて、心に自由を与えるのです。そうして、自分の心からは果たしてどんなものが出てくるのだろうかと、関心を持って見てみようという設定を導入するわけです。ですから、けっこうハラハラドキドキものなのです。そうあってこそ、発見の喜びや、未知との遭遇の驚きも期待できるというものです。
これで、話したいことを話してストレス発散といったこととは一線を画するものであるということが、多少なりともおわかりいただけたでしょうか。