映画『AT THE BENCH アット・ザ・ベンチ』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

映画『AT THE BENCH アット・ザ・ベンチ』(奥山由之監督、2024年。以下、本作)を観た帰り、それなりに混んでいる電車のつり革につかまって観てきた映画を振り返ろうとして、セリフひとつ正確に思い出せないことに愕然とした。映画館を出て、まだ30分も経っていないのに、だ。
思い出すのは映画を観ながら自分が思ったことで、しかしこれとてはっきりとした記憶ではなく、何となく摸とした感じでしかないことにもまた、愕然としてしまった。

そのときは確かに覚えていたはずなのに、どんどん進んでゆくストーリーや、映画館を出て傘を差しながら、雨にも拘わらず相変わらず人通りの多い新宿の街を歩いている間に、すっかり忘れてしまった。
きっと、第1編の広瀬すずだって、大きなすべり台が撤去されることを知っていたのだと思う。でも、どんどん進んでゆく日々の中で、あっという間に撤去作業風景も日常の一コマになってしまい、いよいよ撤去された後に思い出す(というか、たぶん撤去作業が始まったときもそうだったと思うが、風景が変わった、ということに気づいただけなのだろう)。

ということで、本稿はタイトルにもあるとおり、感想に非ず、ただ私が(本稿執筆時に)思ったことが取り留めもなく書いてあるだけだ。
上述したとおり、セリフのひとつも正確に思い出せないので、以降に書く(であろう)セリフやストーリーには間違い、思い違いが多数出てくるであろうこと、予めご承知置きを。

と書いた後にいきなり脱線するのだが、日々の生活の中で自身の記憶が改ざんされていく、というのはよくある話だ。
例えば、小学校の卒業文集に寄せた「将来の夢」がバレリーナではなく「国語の教師」だった、とか。
これは第1編/第5編の脚本を担当した生方美久の「第33回 フジテレビヤングシナリオ大賞」受賞作「踊り場にて」(2021年12月31日放送)に登場するエピソードだが、そのドラマでも本作でも、生方は言葉のチョイスというか、モノの見方というのかが、ちょっと独特だ。
本作でも、例えば「モヤシだけが安くて"モヤシスーパー"と呼ばれている地元のスーパー」とかセンスが良いが、「踊り場にて」でも『うらやまし過ぎてハゲそうです』とか何度見てもその唐突さに吹き出してしまうセンスの良さを発揮している(ただしこれは、富田望生のセリフ回しの賜物でもある)。

生方作の第1編(プロローグ)と第5編(エピローグ)は、広瀬すずと仲野太賀の関係の前後譚になっていて、その時間経過の間に、他の3編の出来事が"このベンチ"で起こった、という作りになっている(第4編を観た後のエピローグは感慨深い)。

プロローグとエピローグの時間(と2人の関係の)経過は「2人の座る距離」で”察する"ことができるが、じゃぁ、2人の座る距離が近ければ仲が良いかというと、そうでもない、というのが第2編(作・蓮見翔)で、一見距離が近くて会話が弾んでそうなのに、実はその会話が別れ話……かも?というのは、意外な盲点でもある(ひたすらズレまくる(というか「善い人」にどこか違和感を覚える、という"あるある"に対するセンスの良いカリカチュアをナチュラルに演じる)岡山天音が最高に素晴らしく、それにガンガン突っ込む岸井ゆきのは素敵だ)。

本作は全編とおして「ベンチに座る2人」の関係性を描いていて、従って必然的に「会話劇」……というか「言葉の応酬」になるが、それが「ベンチ」で起こっているということはつまり、別にその場にたまたま居合わせただけの者が理解できなくても「2人の関係性において会話(のようなもの)が成立していれば良い」ということで、だからそれは別に第4編のように「宇宙語(と、そこに登場する吉岡里帆が本作公式サイトのコメントで書いているからネタバレじゃない)」だって構わない、ということになる。

第1編に登場する広瀬すずの役名が確か「リコ」で、第5編で再登場した際、私は勝手に彼女の名前に「莉子」という漢字を充ててしまったのは、たぶん、映画『違う惑星の変な恋人』(木村聡志監督、2024年)の主演が莉子だったからだ。
私はその映画の感想にこう書いた。

思い返してみれば、喫茶店や電車、路上などで「袖すりあった」人たち、或いは携帯電話で話している人々から漏れ聞こえてくる話は意味不明なことばかりだ。辛うじて「日本語だ」とはわかるが、それ以外は何もわからない。
まさに「哲学ですか?」
いや、大抵の場合において、それが「哲学」でないことは、経験上知っている。
とすれば、アレだ。きっと、そうに違いない。
哲学じみたことを話しているあの人(たち)は、「違う惑星」から来た宇宙人に違いない。

それはたまたま通りかかったベンチに座っていた人たちの会話ももちろん含まれているのだが、それはさておき、この第4編の物語が入っているのは、そしてそれを奥山監督自ら脚本を手がけているというのは、とても意味深いのではないか。
宇宙語(「本当の」という註釈が必要)は、恐らくテレパシーのようなものだと思われるのだが、それで彼らは『地球人たちは言葉を使わなければ伝わらない』みたいなことを話す。
「本当の宇宙語」でそう言わせた奥山監督は、本当にそう思っているのだろうか、というと、恐らく違う(だから、この物語が入っていることは興味深い)。

第4編の草彅剛と吉岡里帆も含め、全5編とも実は、登場人物たち各々の「本当に言いたいこと」は言葉として発せられてはいない。
いや違う。
「我々観客が知りたいこと」は言葉として発せられてはいない、と言うべきだろう。

それは、広瀬すずの仲野太賀に対する気持ちであり、岸井ゆきのが岡山天音に対して抱いている本当の気持ちであり、森七菜の今田美桜に対する気持ちであり、また、今田美桜が森七菜(と彼女をとおして家族)に伝えたい気持ち(この壮絶な姉妹喧嘩は、『(他者の)メンドクサイことを引き受ける』という、まさに根本宗子らしい)であり、広瀬すずが親元を離れてどこで暮らすのか、といったことである。

でも、言葉として発せられていないにも拘わらず、我々観客は「知りたいこと」をちゃんと知ることができる。
そして、スッキリして映画館を後にできる。

……あぁ、なるほど……
だから私は、『セリフひとつ正確に思い出せない』のだ、きっと。

メモ

映画『AT THE BENCH アット・ザ・ベンチ』
2024年11月20日。@テアトル新宿

というか、かつて公園だったその場所にベンチが幾つあったか思い出せないように(劇中のどこかで「3つ」と言っていたような気がするが、それも思い違いかもしれない)、日常において、ベンチで交わした何気無い会話なんか、ほとんど思い出せないのではないか。
ということを、本作は巧く描いているのではないか。
だから、私は『セリフひとつ正確に思い出せない』のだ、きっと。

2024年に復刻版が発売された奥山監督の写真集『君の住む街』(青幻社)には約10年前の、広瀬すずさん、吉岡里帆さんの姿も収められている。

同写真集には、高畑充希さんの姿も収められていて、本文に根本宗子さんについて『(他者の)メンドクサイを引き受ける』と書いたが、それは根本さんが高畑さんのリクエストに応えて2023年に上演された舞台『宝飾時計』(根本宗子作・演出、高畑充希主演)についての拙稿に書いたものだ。



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