音楽が「今はもう心通わない」絶望~映画『麻希のいる世界』~
映画『麻希のいる世界』(塩田明彦監督、2022年。以下、本作)終映後、新宿武蔵野館から新宿駅に向かう間、ずっと怒っていた。
映画の内容に、ではない。
「音楽」が、心通わない無力な存在になってしまったことに対する絶望感であり、それがフィクションではなく、2020年代の「現実」であることを認めてしまった自分自身への怒りである。
本作は、青春映画のフォーマットに「"破滅的な天才"が、自身だけでなく、その才能に魅入られた周囲の人たちの人生をも狂わせていく」という定型を乗せつつ、実は2020年代である現在に対する苛立ちや不安、そして怒りを描いている。
青春時代(に限ったことではないと50代になってしまったオヤジは思うが)には、自分でも訳がわからず、何に対してだかもわからない苛立ちや怒りを持て余し続ける。
しかし、校舎の窓ガラスを割ったり、盗んだバイクやチャリで走り出さなくても、自分自身を傷つけなくても、音楽を聴けば何とか自分を保つことができた。
言葉にならない想いも、「歌詞」に乗せれば伝えることができた。
皆で音を出せば、様々な葛藤を乗り越えて気持ちが一つになった。
女子高生が即席の「ザ・ブルーハーツ」のコピーバンドを結成し文化祭のライブに出る『リンダリンダリンダ』(山下敦弘監督、2005年)、ベンチャーズの「テケテケ」に啓示を受けた高校生がバンドを組む『青春デンデケデケデケ』(大林宣彦監督、1992年)など、「高校生とバンド」を描く映画がある。
バンド活動ではないが、『君が世界のはじまり』(ふくだももこ監督、2020年)では、夜中のショッピングモールに忍び込んだ高校生たちが「ザ・ブルーハーツ」の「人にやさしく」を演奏しているかのようなシーンが描かれている。
観客という側面からは、『私たちのハァハァ』(松井大悟監督、2015年)は、東京・NHKホールでの「クリープハイプ」のライブを観るために、北九州から自転車で会場に向かう女子高生たちが描かれる。
演奏する/観るを問わず、いずれの作品も音楽を媒介とし、青春の苛立ちや葛藤などを「同じ場所、同じ時間」を共有しながら乗り越え、「心通わせ」ていく姿が描かれている、かつての名作青春映画だ。
いや、”かつて”ではなく、最近の高校生だってそうだった。
塩田監督の『さよならくちびる』(2019年)で、「ハルレオ」のライブ後のインタビューに応じた女子高生が、感極まって「さよならくちびる……」と「ハルレオ」の曲を歌い始め、その後、一緒にいた友達と泣きながら抱き合うシーンがあったが、それは2人が「ハルレオ」や他の観客たちと「同じ場所、同じ時間」を共有し、「心通わせた」からではなかったか。
途中までは本作も、そういう映画だと思っていた。
しかし物語はそれを裏切り、登場人物たちは自身の苛立ちに突き動かされ狂気に走り、ついには「『音楽』とは、かつて、そういう存在だった……」と、過去形で書かなければならなくなった「現実」を認めざるを得ない絶望感に辿り着く。
本作において「音楽」は、「同じ場所、同じ時間」を共有するものではなかった。
麻希(日髙麻鈴)の才能に魅入られた由希(新谷ゆづみ)が、自身の才能を生かそうとしない麻希を何とか音楽の世界に引き入れようと孤軍奮闘する(と書くと熱血青春映画のようだが、由希の奮闘ぶりは狂気的なものであり、故に彼女を含め登場人物たちが次第に狂っていくのである)。
麻希のために由希がお膳立てしたバンドも心通わせられず、1曲もたずに崩壊してしまう。
それでも諦めない由希は、軽音部の部長・祐介(窪塚愛流)に麻希のプロデュースを依頼する。
渋々ながら由希の依頼を引き受けた祐介は、DAWで「完パケ」品を作ろうとする。
そこには、バンド形式で「せーの」で音を合わせることなく、ほぼ祐介ひとりで各パートを演奏し、コンピュータに取り込むだけで楽曲ができる、現代の音楽制作スタイルが描かれている。
出来た楽曲を聴いた麻希が「ベースは由希が弾くべき」などと意見するが、それも祐介が弾いたベースのパートを由希が録り直すだけの作業で済む。
つまりは楽曲制作自体が「個人作業」なのであり、そこでは楽曲制作に携わる祐介・麻希・由希が心通わせる機会がない。というか、そもそもその必要がない。
出来た楽曲は「音楽」ではなく「データ」であり、祐介はその発表方法について「YouTubeかサブスクか、或いは知り合いの東京の音楽関係者に渡すか」と提案する。
祐介自身は軽音部の月例演奏会で同じ学校の生徒たちの前で演奏しているが、音楽発表の場が、「同じ学校の生徒=顔どころか素性まで知っている」極端に狭い場所か、「全世界向け配信=素性どころか本当に存在するか確認する術もない」極端に広い場所か、両極しかない。
その月例演奏会とて、キャーキャー応援するファン(女子生徒)に向かって祐介たちが一方的に音を出しているだけで、「同じ場所、同じ時間」を共有する気持ちが希薄である(ように見えた)。
上述したように、態度や言葉にできない想いを共有し「心通わせる」ことができるのが音楽の力であるとするならば、それを閉ざしてしまった本作の高校生たちは、自ずと「心通わせる」ことから拒絶されてしまう。
だから、自分の気持ちが相手に届かず、自身も相手の気持ちを受け取ることができない。
そのことにより、さらに各々が苛立ちや不満、怒りを増幅させていく悪循環に陥る。
増幅させ過ぎてリミッターを越えてしまった(高校生だけでなく、その親を含めた)登場人物たちが、最終的に各々の狂気を発動させてしまうのは必然であった。
これはフィクションではない。
2020年代において、単なる「データ」として扱われている「音楽」は、「同じ場所、同じ時間」を共有し「心通わせる」ものではなくなり、人々が各々抱えた狂気を鎮める力を失った。
私は、無力なものに成り下がってしまった「音楽」に絶望し、それが現実であると認めてしまった自分自身に怒りを覚えたのである。
メモ
映画『麻希のいる世界』
2022年2月2日。@新宿武蔵野館
断っておくが、私は本作を批判しているわけではない。
青春の痛みを描いた本作を50代のオヤジが俯瞰的に観て(さすがに全面的に共感することは難しい)、「音楽」をキーワードとして書いた作文である、というだけである。
本文で『さよならくちびる』を参照したのは、塩田監督が本作同様に音楽をテーマに撮った映画だからという理由だけではない。
だが、『そうこうしているうちに、緊急事態宣言が発令され、すべての仕事がストップしてしま』い、塩田監督は『精神状態も追い込まれていた』。
だから、『わけのわからない苛立ちとか不安とかが入り交じっ』った結果として……
本稿表題は1970年代にヒットした『あの素晴らしい愛をもう一度』(北山修作詞、加藤和彦作曲)の歌詞から借用した。
『心と心が今はもう通わない』と歌われる名曲は、「かつては通い合っていた」ことを意味する。
本作の登場人物たちは大人も含め、『もう一度』と懐古できる『あの素晴らしい愛』を感じたことが、きっとないのだろう。
本作最終盤、由希と麻希が、かつて祐介とともに作った楽曲を媒介に「心通わせた」と仄めかすシーンがある。
どう捉えるかは人それぞれだが、私個人は、通ったのは互いのスマホ間の「データ」であり「心」ではなかったように思えた。
しかし、ラストの由希の表情を見ると、ネット空間でのコミュニケーションを重視する2020年代の高校生にとっては、スマホ間を行き来するだけの「データ」も("こそ"なのかもしれないが)、大切な「心」なのかもしれないな、とも思ってしまうのである。