映画『サンセット・サンライズ』(TIFF2024 ガラ・セレクション)を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

映画『サンセット・サンライズ』(岸善幸監督、2025年1月17日公開予定。以下、本作)の開始早々、菅田将暉演じる主人公・西尾の無遠慮な振る舞いに、本作をどう観ればいいか戸惑った。
西尾の「自由に生きてる」の行動にイライラしながら暫しの時間を過ごした後、井上真央演じるヒロイン・百香ももかがマスクを外す姿に見惚れる彼を観て、合点がいった。
これは「大人のラブコメ」だ。

新型コロナウイルスのパンデミックで世界中がロックダウンに追い込まれた2020年。リモートワークを機に東京の大企業に勤める釣り好きの晋作(菅田将暉)は、4LDK・家賃6万円の神物件に一目惚れ。何より海が近くて大好きな釣りが楽しめる宮城県・南三陸の町で気楽な“お試し移住”をスタート。仕事の合間には海へ通って釣り三昧の日々を過ごすが、東京から来た〈よそ者〉の晋作に、町の人たちは気が気でない。一癖も二癖もある地元民の距離感ゼロの交流にとまどいながらも、持ち前のポジティブな性格と行動力でいつしか溶け込んでいく晋作だったが、その先にはまさかの人生が待っていた――⁉

本作公式サイト「Story」

フォーマットは完全に漫画『めぞん一刻』(高橋留美子、1980~87)で、その上に乗っている「大人」とは「歴史」-つまり「時間、記録、記憶」-だ。

「時間、記録、記憶」という概念は人間のものだけれど、それは「土地」や「家」にもあるのではないか。

例えば、映画『椿の庭』(上田義彦監督、2021年)では「庭の記憶」が、阿佐ヶ谷スパイダースが2021年に上演した舞台『老いと建築』(長塚圭史作・演出)では「家の記憶」が描かれた。

宮城県が舞台の本作では、「人の時間、記録、記憶」をコロナ禍、「土地の時間、記録、記憶」を東日本大震災、「家の時間、記録、記憶」を空き家問題として描く。
空き家問題が持つ複雑性は、単に「住む人がいない」というだけではなく、「手放せない」という、そこに住んでいた人々の「思い出(記憶)」が大きく関係していることに起因する。
その「思い出」の「記録装置」として、本作では家そのもの以外に家具(シールがペタペタ)、食器(落書き)、或いは、音声が録音されたMD(Mini Disc)などが仮託されるが、それらは単に「記録」しているだけなのかというと、実はそれら自体もそれを「記憶」しているのではないか。
序盤に百香が見る2人の子どもたちや、終盤に西尾が見る亡くなった老女は、彼女/彼が自身の「思い出」として見たのではなく、家が見ている「思い出」を見てしまったのではないか。

といったように本作は、コロナ・震災などの「記憶」を織り交ぜながら、『めぞん一刻』のラブコメフォーマットに則った西尾と百香の微妙な恋の行方を描いている。
宮藤官九郎脚本ということもあり、基本、というか「見た目」はライトコメディーを「装っている」。
だからそう観ることに問題はないのだが、観客の多くは観終わった後に「微妙な胸の痛み」が残るのではないか。
その「微妙な胸の痛み」は、西尾が叫ぶ『切なさ』とは全く違って、「記憶の変化」に対するものだ。

本作を観る1週間ほど前、私は『いびしない愛』(竹田モモコ作、マキノノゾミ演出)という舞台を観て、その感想文に『最初の緊急事態宣言の頃、『コロナで価値観が変わった』という人たちを報じたネットニュースに違和感を覚えた』と記した。
その違和感について、映画『東京組曲2020』(三島有紀子監督、2023年)の感想文に、こう書いた。

それは「価値観」という言葉を、あまりに曖昧かつ軽く扱っていることに対する違和感だった。
確かにコロナ禍(特に初期段階における)は全世界的であって、その大きな衝撃と戸惑いを「価値観が変わった」という言葉で表現しているのだろうと察することはできる。
しかしその言葉は、それ以前に、東北で大きな地震とそれによる津波(の映像)と原子力発電所の「絶対安全神話」の化けの皮が完全に剝がされ「計画停電」なる聞き慣れない言葉のもとに実際に停電になるという経験をしたときにも聞いたし、それ以前、ニューヨークの双子のビルに民間航空機が突っ込んだときにも聞いた。
「あまりに曖昧かつ軽く扱っていることに対する違和感」は、それらで変わった(はずの)「価値観」への総括がなされず、また、そこから時間を経たことによる変遷を辿ることもなされないまま、「価値観が変わった」という言葉が発せられていることによる。

我々は未だ、震災についても、コロナ禍についても『「価値観」についての総括』をしていないんじゃないか。

本作中盤、竹原ピストル演じるケンが、『それまで東京の人は東北を見ていなかったんじゃないか。震災のとき、東京から多くの人が来てくれた。みんな顔に「今まで見ていなくてゴメン」と書いてあって、それが凄く嬉しかった』というようなセリフを言う。

本作の強烈な皮肉は、終盤『♪は~るのことです~ おもいだしてご~らん』と歌われる中で映し出される映像だ。
このシーンを、あの『春』に『価値観が変わった』と言っていた人たちはどう観るだろう?
我々は移り行く時の中で起こる様々なことに翻弄されているうちに「記憶」を改変し、またも東北を見なくなっていないだろうか?
あのとき『変わった』はずの『価値観』を思い出せなくなってはいないだろうか?

本作は明確に「今という時間」から「あのときの時間」を総括しようとしている。
だから、それを怠って「今という時間」をのほほんと生きている我々は、本作を観て「微妙な胸の痛み」を感じてしまうのではないか。

さらに言えば、「微妙な胸の痛み」と同時に「微妙な違和」も感じる。
物語は、最初の「緊急事態宣言」が発出される前の2020年、9年目の「3.11」の少し前(初見だったので断定はできないが、「緊急事態宣言」発出の、ちょうど1ヶ月前ではなかったか?)から始まる(テレビニュースでは「ダイヤモンド・プリンセス号」(覚えているだろうか?)が報じられている)。
その時点で「ソーシャルディスタンス」という言葉は一般的だっただろうか?
「濃厚接触者と特定できない者や、東京から来た者による2週間の自主隔離期間」は強要されていただろうか?(2020年4月22日の段階で(自主的に)強要されていたのは、上述した『東京組曲2020』が証言している)
本作は「記憶が変わる」ことを巧みに利用し、映画という「記録」にウィルスを侵入させ、観客の「記憶」を変異させようとしているのではないか?

それが自覚的に行われているのは、西尾が勤める会社がその時点で「リモートワーク」になっていることでも明らかだ(ある社員が『社長が"先取り"して』と言っているが、その時点ではそういう働き方が一般的になるとは思っていなかった、というか、そもそもそういう働き方があることすら大方の人は知らなかったわけだから、その時点"先取り"という言葉を使うのはおかしい。つまり、このセリフは「記憶の変異」に対するツッコミ(注意喚起)である)。

もっと言えば、「微妙な胸の痛み」「微妙な違和」と同時に「切なさ」も感じる。
それは「ラブコメ」に対するものではない。
西尾が叫ぶ「切なさ」は、『ただ自分がしたいことをしているだけなのに、それを他人や社会が素直に受け入れて、認めてくれない』ということだ。
これは、その時点より、それと共存(with)して日常を取り戻したかに見える現在の方が、より切なく実感されるのではないだろうか?

メモ

映画『サンセット・サンライズ』(TIFF2024 ガラ・セレクション出品作品)
2024年11月4日。@TOHOシネマズ日比谷

当日の午前中、TIFFのユースプログラム「山崎バニラの活弁小絵巻 2024」を観ていた。
1933年に制作された『三公と蛸~百万両珍騒動』という日本のアニメーションが上映されたのだが、タイトルにあるとおり、三公という主人公が蛸と格闘する話だった。
そして夜、本作を観たのだが、そこでもまた主人公の西尾が蛸と格闘していた。
蛸で始まり、蛸で終わった一日だった。


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