映画『猿楽町で会いましょう』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

映画『猿楽町で会いましょう』(児山隆監督、2021年。以下、本作)のヒロイン・田中ユカ(石川瑠華)とは何者なのか?

で、ふと、こんなことを思った。
ユカは「SNSそのもの」であり、本作は「『2010年代のSNS』を的確に切り取った映画」と言えるのではないか。

本稿は、本作について取り留めもなく考えたことを書いているだけで、紹介でも批評でも感想でもない。


狭い物語世界

物語を乱暴に一言で言い切れば、「ユカに振り回させる人たちの話」。

物語は、3部に分かれている。
第1部はもう一人の主人公・小山田修司(金子大地)の視点から、彼がユカと出会って付き合うまでの話。
第2部は、視点が変わり、ユカが東京へ出て来て修司と出会うまでの話。
第3部は、お互いの視点から、付き合ってから別れるまでの話。

「猿楽町」は修司が住んでいるアパートがある町名で、東京の渋谷駅の南、映画でもユカが言うとおり、「代官山寄り」の一角にあたる非常に狭いエリアである。

そのタイトルのとおり、物語の世界も狭い。
第1部は修司=観客から見たユカであり、この時点でユカは「謎の女」である。
その謎は、続く第2部でほとんど解ける。
第1部でユカが呟いた謎めいた言葉も、実はその直前に他の人から言われた言葉をトレースしていただけということがわかる。

登場人物の関係も閉じていて、その人たちの中だけで物語世界が完結している。
だから、物語は「ご都合主義」で出来ているし、各々のエピソードはどれも「類型的」である。

「ご都合主義」なのは、たとえば、修司とユカの出会い方、大島久子(小西桜子)を撮影するいきさつなどで、「類型的」なのは、たとえば、芸能事務所のいかがわしさ、女性タレントの卵たちの生計の立て方、修司が認められていく過程(「カメラマン志望の男が好きな女性を撮った写真でコンクール入選」とか)ということになる。
つまり、本作は「物語の始まりと終わりが決まっていて、そこから逆算したエピソードを当て嵌めて」構成されているようにも思えるのだ。

批判しているわけではない。

映画の使命の一つが「その時代を切り取る」ことだとすれば、本作は冒頭に書いたように「『2010年代のSNS』を的確に切り取っ」ている。


ユカとは何者か?

ユカには謎が多い、というか、「動機が不明なことだらけ」なのである。
「つかみどころがない」のではなく、そもそも「つかむところが存在しない」。

本作で描かれるユカは、徹底的に「自分」を持っていない
それが計算されて作られたキャラクターであることは、最終盤の「ユカがインタビューに答えるシーン」で明らかである。

「嫌いな物」を訊かれたユカは、「タバコ」と答えるが、その理由は「父親がヘビースモーカーで、それが原因で母親と諍いが絶えなかったから」。修司のタバコの煙にむせたにも関わらずだ。

ユカは最初からそうだった。
言われるままに事務所のレッスン費を払い、その費用を捻出するために同じ事務所の子から誘われた怪しいバイトにすんなり応じ、修司から告白されればそれを受け入れ、元カレから誘われるとやっぱりそちらになびいてしまう。
怪しいバイトの店を移る際も、自分で名前を考えず、誘ってくれた子が付けていた名前を勝手にパクる。
連れて行ってもらった焼き肉屋に別の人を連れて行き、人から聞いた言葉を他の誰かに自分の言葉として語る。

だから最後、インタビューで「自分はどんな人か?」と問われて、動揺する。
人から"明るい"と言われます』と答えた後、それが他人の印象であって、自己分析ではないことに気づく。
SNSでは、それが実名だろうが偽名だろうが、「自分は何者か」は問われないし、たとえ問われたとしても正直に答える必要はなく、誰かのコピペで構わない。問うた人も、むしろそちらの方を期待している。
だから、自己分析する必要などなかった。

ユカは、2010年代末の「SNSそのもの」である。

書き込みの内容が「正」だろうが「偽」だろうが、刻々と流れるタイムラインに乗ってさえいれば、自分を問われることはなく、たとえタイムラインの潮目が変わっても、何食わぬ顔で、そちらに乗り換えればいい。

SNSには、「自分の意見・気持ち」を書き込んでいると思い込んでいるけれど、リアルで改めて自分を問われた時に、それらの書き込みは「ただタイムラインに乗っていただけ」であり、「本当の自分」などどこにもなかったことに気がついて愕然とする。

文字だけの会話で、わかり合えていると信じていた相手は実はそのつもりじゃなく(「そもそも俺たちって付き合ってたっけ?」)、裏切られたように感じる。
友達に知られないよう裏アカに書いてたことが、バレる。


いくら書き込んでも、それはあっという間にタイムラインの彼方へ去っていく。それがどんなに大切な愛の言葉だろうと、悲痛な叫びだろうと、気に留められず、数多の書き込みの1つとして埋没してしまう。
だからこそ、ユカは叫ぶ。
『今じゃなきゃダメなの。意味ないの!』と。


冒頭に「ユカに振り回させる人たちの話」と書いたが、ユカは「何者」でもなく、ただの「SNSの書き込み」だと考えてみる。

同一人物だと思われるアカウントの書き込みだけを抽出してみても、たぶん、そこから「一個の人格」らしきものは見い出せないだろう。
書き込みは、ただその時々のタイムラインに乗っているだけで、その書き込みを読む側が勝手に人格を想像しているに過ぎない。

そして、ユカ(つまり「SNSの書き込み」)に関わった人々が振り回されてしまう、と、2021年でも世界中で日常的に行われている行為を描いた映画ではないだろうか。


SNSに「本当の事がある」と誤解した修司と「本当」が何かがわからないユカ

田中ユカ自身は、自分が「SNSのアバター」であることに気づいていた。
修司が出会って間もないユカの写真を撮ろうとした時、ユカは「私を撮っても意味ないよ」と言う。
その時修司は、「意味あるよ。俺だったら本当のユカちゃんを撮れるんじゃないかって」と返すが、結局、SNSの中に「真実」がないことに気がつく。

愕然とした修司は、ユカに「頼むから本当の事を言えよ」と詰め寄るが、SNSであるユカは「本当のことを書き込んでいる」と思い込んでいるので、修司が知りたい「本当」の意味が理解できない。

その意味を理解するのは、インタビューで『田中さんは、どんな人ですか?』と聞かれた時だった。

ユカが猿楽町から姿を消し、彼女を中心とした一つのSNSコミュニティーの終焉を迎えた。
しかし、SNSは決して消えない。
どこかの町でまた、ユカを中心としたSNSコミュニティーが始まる。

本作の舞台は、2010年代最後の年、2019年の東京・猿楽町。
「2010年代はどんな時代だったか」を総括した、まさに「時代を切り取った秀逸な映画」であった。

(2021年6月5日。@シネ・リーブル池袋)

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