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映画『夜のまにまに』

僕は映画で、夜を引き延ばすことしかやってない

映画『夜のまにまに』(磯部鉄平監督、2024年。以下、本作)のパンフレットに、磯部監督がそう語ったと書かれている。

どこか人任せなフリーターの新平(加部亜門)は、幼馴染で彼女の咲(永瀬未留)と別れた日、訪れた映画館で佳純(山本奈衣瑠)と出会う。
意気投合し、夜の街で一緒に過ごす二人。
しばらくすると、新平のバイト先のカフェで佳純が働き始める。
再会に驚く新平だったが、佳純から“彼氏の浮気調査を手伝ってほしい”と頼まれ、探偵の真似ごとをする羽目に。
強引な佳純に振り回されながらも、新平は少しずつ彼女に惹かれていくが……

本作公式サイト「STORY」

夜というのはとても不思議で、そこには「秘め事」の背徳感と高揚感、さらには謎の親密感の気配までが付き纏う(さらには「ほとんどの人が寝ている時間に起きている」という謎の優越感も)。
セックスはもちろん浮気だってそうだが、それだけでなく、自分の裏というか、日中では絶対に人目に晒さない言動をしてしまう。或いは、それを臆面もなく装ってしまうことができる。
それは紛れもなく「夜の闇」のせいで、闇に身を隠すことで何かから許された、或いは赦されたという恍惚感が味わえる。
だから、全てが白の下に晒されることがないよう、できるだけ夜を引き延ばそうとする。
「夜の闇」に『まにまに』漂っているのは気持ちがいい。

映画館という場所もそうだ。
夜に似た暗闇の中、観客は始まってしまった映画に『まにまに』漂うしかなく、それはとても気持ちがいい。

磯部監督は、恐らくそれをよく心得ている。だから、本作は映画館で観るべき(というか、映画館でしか観られないと言った方が適切)だ。
映画館以外や明るい場所で観ると、この世界観に『まにまに』浸ることは出来ない。
それは本作が、佳純と咲が自分の都合の良いように新平を振り回しているように見えるからで、それは佳純と咲が「夜の闇」を利用しているからだ。

本作をどう観るか?
例えば、劇中でサン=テグジュペリの『星の王子様』が登場するのにちなんで、「大人の童話」として観るのはどうか?

王子様は佳純と咲、新平は飛行士(兼、キツネ)。
王子様は、飛行士と出会う(我儘を言う)ことでキツネの言っていたことを理解し、愛するバラの元へ帰る決心をする。
だから、関西弁圏内の物語にあって、新平は他所者として描かれる(或いは、カフェも含めて、彼は「マレビト」的存在とも言える)。

或いは、本作は「見習い天使」の物語だとも言えるのではないか。
「見習い天使」である新平は、守護する佳純と咲の前に現れるが、「見習い」であるが故に、逆に彼女たちに振り回されてしまう。
しかし、そうすることによって彼は天使として成長し、見事彼女たちを救うことができた。そして、コーチ役の先輩(黒住尚生)からも認められ、天使として独り立ちした……と。

本作が心地よく流れてゆくのは、映画館の暗闇に出現する「関西弁圏」独特の空気感に『まにまに』漂わせてくれるからではないか。
終映後、アフタートークの準備するスタッフさんたちをぼんやり眺めながら、一瞬、ここが新宿ではなく大阪ではないかと本気で勘違いしてしまったのだが、その理由がアフタートークでわかった気がした。
本作のグルーブの良さは、本作自体が制作過程において、磯部監督を始めとする制作陣とキャスト陣との掛け合いの中で『まにまに』進んできたことによるのではないか。

そして、観終わった後に何だか元気が湧いてくるのは、「明け方の疾走感」によるものではないか。

『僕は映画で、夜を引き延ばすことしかやってない』と磯部監督は語ったが、『引き延ばす』とはつまり、「夜」には終わりがあることが前提としてある。
「夜の闇」は心地良いが、それはもちろん「夜は必ず明ける」という「安心感」から来る。
その「安心感」が人々を「夜の闇」に『まにまに』漂わせ、「安心感」が「明日への希望」となる。

だから、「夜を舞台にしたロードムービー」の定番は、明け方の疾走(「夜明け=希望」に向かって走る!!)だ。
本作ももちろん、その定番に従っている。
とはいえ、本作の明け方の疾走は、ちょっとひねくれている。そこが本作の素敵なところだ。

メモ

映画『夜のまにまに』
2024年11月23日。@新宿シネマカリテ(アフタートークあり)

こんな簡単な感想文で申し訳ない気持ちでいっぱいです。

しかし、言い訳でしかないのですが、本作を観た後、近くのテアトル新宿で
オールナイトで3本の映画を観て、寝ないでその感想を書き、本稿を書いているので、もう頭が回らないのです……

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