言葉はウソをつく~映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』(TIFF2024 コンペティション)を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)~
言葉はウソをつく。
ホンマの事も言うが、やっぱりウソをつく。明らかにウソというのもあるが、「自分、何ゆーてんねやろ?」と思いながらも、勝手に口が動いてしまうのを止められないことも(本当に)よくある。
時には、実際に「何ゆってんるんやろ」と口にしながらも、それすら口が勝手に動いている所業だったりもするから厄介だ。
ウソでも何でも、口が勝手に動いて止まらないのは、そうやって言葉を吐き出し続けていないと、「自分」というものを保てないからだ。
それは「本当の自分」という事とは全く関係がなく、ただただ今この瞬間において「自分というモノ」が壊れないでいるために、無意味な言葉を吐き出し続ける。
何のために、誰にも届かないとわかっている無意味な言葉を吐き出し続けてしまうのか?
映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』(大九明子監督、2025年4月公開予定。以下、本作)の登場人物たちが教えてくれる。
とにかく、本作のセリフ量は尋常じゃないが、所謂「セリフ劇」ではない。先に書いたように、彼/彼女らが放つ言葉は誰かに向けられているようで、そうではない。「届いていない」のではなく、最初から(本人の意図か否かは関係なく)ただの「独白」にしかなっていない。
言葉はウソをつく。
皆それを知っている。何故なら自分がそうだからだ。だから、相手の言葉にもウソがある、と信じてしまう。
疑っているわけではなく信じているからこそ、相手の言葉とその時の態度を一方的に邪推して、勝手に不信を募らせる(そのあげく、自身が生み出した妄想を妄信してしまう)。
無意味な言葉が際限なく口をついて出てくるのは、大切な言葉が言えないからだ。
頭ではわかっている。言おうと思えば簡単に口に出来る短い言葉だ。
しかし、「無意識」がそれを許さない。
何故ならそれは、かつて吉田拓郎が「言葉」(アルバム『ローリング30』(1978年)収録)という曲で歌ったように、『どこにも転がっている言葉』なのに『一番重』く、『人生さえも塗り替えるほどこわい言葉』だと、「無意識」が知っているからだ。
だから「無意識」が、それを避けるように無意味な言葉を重ねてしまう。
侵されたくない、侵されると自分が自分でなくなってしまうような心の裡を無意識にガードする(それを饒舌な言葉で覆い隠してしまおうとする無意識を、喫茶店のマスター(登場するたびに私を含めた観客からクスクス笑いが漏れるという、安齋肇ならではの存在感)の言葉で具現化するというのは、凄いアイデアだ)。
それは、似非(からも程遠い、完全に作為的な)関西弁を使い続ける山根も然り。
私は、大九監督の『美人が婚活してみたら』(2018年)が大好きなのだが、主人公のタカコ(黒川芽以)は、本作の主要人物とは正反対に、言いたい事を呑み込んでしまうタイプで、それが故に極端な行動に出てしまい、他人(本当に人が好い男性を中村倫也が好演している)を傷つけてしまって激しく後悔する(夜の波止場での慟哭シーンは、その時のタカコの心情と黒川芽以の迫真の演技で、何度観ても号泣してしまう)。
本作終盤では、大切な言葉が言えず、故に饒舌に言葉を重ねてしまう桜田が慟哭し、続いて、自分のことばかりで他人の言葉を聞かなかった小西が後悔の涙を流す(核心を隠すための饒舌な言葉は当然ながら相手に伝わらず、だからこそ、"あの"古田新太が演じる銭湯の主人の短い素直な言葉が胸に直接刺さって苦しくなる(「いやだ」というたった3文字の言葉が、こんなに胸に刺さるなんて))。
言葉はウソをつくが、映画もウソをつく。
それは本作がフィクションだから、ではないし、ある意味での「どんでん返し」があるから、でもない。
劇中で衝撃的なことが起こるからだ。
最終盤、恐ろしいほどの長ゼリフを吐く河合優実(本作は「(過剰な言葉である)長ゼリフ」が一つの鍵になっていて、だから、伊藤蒼と萩原利久にも長ゼリフがある。特に、伊藤蒼の長ゼリフは観客の共感を強烈に誘う(是非映画館で観てほしい)もので、もしかしたらこのシーンで映画賞が獲れるかもしれないと思わせるものだった)を捉えるカメラが突然、不自然に河合をアップにした。
その瞬間、私は何が起こったのか混乱し、映画を観ている「脳」がバグった気がした。
バグった私の頭には、映画『王国(あるいはその家について)』(草野なつか監督、2023年公開)が浮かび、だから、河合のアップが本番なのかリハーサルなのか、或いはドキュメンタリーなのかわからなくなってパニックになった(このシーン以外にも、初めて言葉を交わした小西と桜田が構内を歩くシーンで不自然に編集されたようなシーンがエラーとして私の脳に伝わりバグった)。
言葉はウソをつく。
別につきたいわけじゃないのだけど、自分が想っていることと口に出した言葉がとても乖離していて、それを補おう(「取り繕う」わけじゃない)と、軌道修正しようと言葉を重ねてしまう。でも、言葉を重ねれば重ねるほど、却って自分の思っていることからどんどん遠ざかってしまう。
言葉はウソをつく。
知っている。でも、小西や桜田、さっちゃんが言葉を紡ぐのを止めないのは、そして、だれかの饒舌な言葉を遮らないのは、その中に「思わず出てしまった真の言葉」があると知っているからだ。
それを知っているから「自分、何ゆってるんやろ?」と思ったりしながらも言葉を紡ぐのを止めないし、「この人、何が言いたいんやろ?」と思ったりしながらも、浴びせられる言葉を必死で受け止める。
物語はやがて、饒舌な言葉の中から「真の言葉」を見つけ出し、我々観客は静かにそれを受け取る。
ラスト、静けさに満ちた庭のショットが長く続く。
言葉はいらない。もう、言葉を紡ぐ必要はない。
我々観客は、彼/彼女らと一緒に、無言でその庭を眺め続けながら、受け止めた言葉を全身で噛みしめ、余韻に浸る。
皆で一緒に見ている空は……
メモ
映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』(TIFF2024 コンペティション出品作品)
2024年11月5日。@ヒューマントラストシネマ有楽町
言葉を吐き出すたび自分の想いとどんどん乖離していく、というのは、"note"の記事を書いていて常に実感する思いである(だから、私の拙稿は無駄に長い)。
本作を言葉にするのは難しい、というか本作は、饒舌すぎるほどの過剰な言葉を繰り出すことによって「結局、言葉なんていらないよね」ということを伝えようとしているのではないか、と思う。
最終盤の小西の独白からラストの無音に達したとき、私は得も言われぬ幸せに満ちていた。帰り道、それが「余韻に浸る」ということだと気づいた。
そして、本稿を書きながら、それは「読経によって"無我"の境地に達する」ことと同意なのではないか、と思った。
「言葉」と対比される「音楽・音」についても書きたかった。
機会があれば、公開後に書いてみたい、とも思う(とはいえ、言葉はウソをつくので、書かない可能性の方が高いが)。