「ジャケ買い」と「評価」
2021年1月、『エポックのアトリエ 菅谷晋一がつくるレコードジャケット』(南部充俊監督、2021年)という映画を観た。
ザ・クロマニヨンズやOKAMOTO'Sのレコードジャケットの多くを手掛けるデザイナ・菅谷晋一氏を追ったドキュメンタリ映画で、ザ・クロマニヨンズのシングル「クレーンゲーム」とアルバム「PUNCH」(共に2019年リリース)のデザインの過程を軸にして、上記バンドのメンバー他、関係者のインタビューで構成されている。
特に印象に残ったのは、所謂「ジャケ買い」という行為についてだ。
「ジャケ買い」には、人生を大きく変える力がある。
たとえば、ザ・クロマニヨンズの真島昌利氏が映画でこう話している。
50'sばかり聞いていた若かりし彼は、ある日、レコード屋で、全く知らない「セックス・ピストルズ」というパンクバンドのシングル盤を「ジャケ買い」した。
『家に帰って、結局そのシングル盤だけを繰り返し聴いた。その時一緒に買った他のレコードは聴かなかった』
後に彼は、「THE BLUE HEARTS」というパンクバンドでデビューする。
美術批評家の椹木野衣氏は著書『感性は感動しない 美術の見方、批評の作法』(世界思想社、2018年)で、「ジャケ買い」が『批評家としてのいまの私に根深いところで通じているように思う』と書いている。
1980年代始め、大学生の椹木青年はレコード屋で頻繁に新譜を漁っていた。
ちなみに「日本盤と違い」とあるが、先の映画によるとジャケットにかけられたアーチスト名やキャッチコピーなどが書かれた「帯」は日本独自のものであるらしく、『輸入盤はジャケットデザインだけが唯一の情報』だった。
つまり当時の人は、どれがアーチスト名でどれがタイトルなのかも判別できない(レコード屋によってはそれらを書いた付箋みたいなものを貼ってあった)、人物が載っていない、載っていてもそれがアーチスト本人という保証はない、アーチストがどんな人(たち)かもわからない、ジャンルもわからない、という「わからないことだらけ」の状況で、自分の「勘」だけを頼りにレコードを購入しなければならなかったのだ。
私もそうだったし、椹木青年もそうだった。
というか、みんなそうだった。
みんな、ドキドキしながら、自宅のプレイヤーの針を落としたのだ。
流れてくる音楽は、「やり場のない絶望」か「大いなる歓喜」か。
椹木青年は、仲間同士で各々の「勘」で選んだレコードの「批評」をし合い、日々議論を戦わせていた。
椹木氏は自身の経験から、『批評家がいちばん問われるのは、新人への判断』であり、何の情報も履歴もいっさいない作品を評価する「眼力」が、批評家の力量であると説く。
映画に戻り、再び菅谷氏。
プレゼンの場で数種類の案を提示し、クライアントに選ばせるデザイナは多い。
デザイナや状況によっては、「本命を選ばせるために、あえて(本命より少し劣る)他の案も提示する」ことも多々ある。
しかし彼は、一つの「決定稿」しか提示しない。
『クライアントの人はわざわざ僕のデザインを見るために、忙しい時間を割いてくれているのだから、いっぱいデザイン案を提示して選ばせるという時間の使わせ方は失礼だと思う。
そこに100%注ぎ込めばOKじゃん!』
そんな彼のデザインを、映画に出ていたクライアント側のアーチストたちは、口を揃えて『修正を依頼したことはない』と証言する。
ザ・クロマニヨンズの甲本ヒロト氏の証言は、椹木氏の「批評家としての考え方」を、アーチストとして真正面から受け止めている。
『(菅谷氏が提示した)ジャケットデザインを見て、「いいね」。それだけ。何にも聞かない。ジャケットが全てだから。だって、聞かなきゃわからないデザインだったら、いちいちレコード屋で説明しなきゃ伝わらないってことじゃない?』
21世紀。
CDショップで気になるジャケットを見ながらスマホを操作すれば、即座にたくさんの情報が得られる。視聴もできる。
CDの購入にリスクを負うことはなくなった。
CDだけでなく、あらゆる「モノ」も同様だ。
それでいいのだろうか?
我々は、レビューを書いたり、点数を付けたり、「いいね」を押したりして、あらゆるモノを「評価」しているつもりになっている。
だが、その行為は椹木氏がいう『まだ誰も言葉を発していないモノに対して、自分がどう思うのか自分だけの力で決める』ことから遠のいてしまっていないだろうか?
それは同時に、我々がアーチストの発する「想い」を受け止める力を失ってきているということではないのだろうか?