舞台『そのいのち』
「対等な関係」という言葉は、ある。
しかし現実社会に「対等な関係」はあるのだろうか?
舞台『そのいのち』(佐藤二朗作、堤泰之演出。以下、本作)を観ながら、それをずっと考えていた。
当人同士がどう思っていようと、人間社会において他者同士が「関係」を持つとき、そこに(一時的であれ)必然として「する(した)/される(された)」という「関係性」が生じてしまうのではないか?
そしてその関係性は「上/下」を想起させ、やがて「優/劣」となり、慢性化(或いは過剰化・過激化)すると「上/下」「優/劣」が「生死をコントロールできる/されても仕方がない」という思い込みに発展する。
本作が最終的に描き出す関係性は「被害者と加害者」だ。
しかし、それは一方通行ではない。
本作は、それが起こった瞬間の関係性が、「加害者と被害者」だと決定した瞬間に逆転する、という現実の無慈悲なパラドックスを詳らかにする。
物語は冒頭「する/される」関係性のパラドックスを描く。
劇中では語られないが何らかの事故によって下半身不随となった花と結婚した和清は、当人たちがどう思っていようと世間(=観客)の目からは、和清の裏に「(悪い意味での)企み」があるように見える(「愛」とか「慈しみ」という目では絶対に見ない。それはもちろん「物語上のわかりやすさ」という明確な意図によってカリカチュアされているからでもある。和清を演じた佐藤はパンフレットにおいて『アンチ側の人間は、自分が演じるべきだと思っていました』と答えている)。
つまり、ここにおいて世間が「障がい者と結婚した健常者」を下に見ている(本作では描かないが、現実社会では「憐み」から下に見ることも多い)ことが明らかにされる。
そしてそれによって、世間が障がい者を憐れんでいることの裏返しとして「上に見ようとする」というパラドックスまでを観客(=世間)に指摘する。
劇中で花が『誰も私を憎まない。みんな私に優しい』といったセリフを言う。そして和清に向かって『私を憎んでくれて、ありがとう』と返す。
このセリフを実際に障がいを持つ上甲にかが言うのだから、私を含めた観客(=健常者による世間)が受け取るショックは大きい。
そうして展開される物語は中盤、花の家族が登場したあたりから、上述の「加害者と被害者の関係性」が起動する。
贅沢な暮らしをしていそうに見える花の母親(今藤洋子)は、花に何かの書類にサインをさせながら、『(賠償金という)お金が欲しいってわけじゃないけど、もらえるものはもらっておかないと』といったセリフを言う。
このセリフにおいて、『それが起こった瞬間の関係性が、「加害者と被害者」だと決定した瞬間に逆転する、という現実の無慈悲なパラドックス』が明らかになる。
故意か否かやそれに至った経緯とは関係無く、それが起こった瞬間において、「加害した者が上」で「被害を受けた者が下」の関係性となる。
しかし、その後「加害者/被害者」と決定した瞬間から、「罪を償わせてもらう/罪を償わせてやる」という上下逆転の関係性となる。
そしてその、「罪を償わせてもらう/罪を償わせてやる」という上下逆転のパラドックスが狂気化すると、『そのいのち』のコントロールすら、双方の関係性の中において正当化されてしまう。
100分の物語を観た観客の中で、宮沢りえ演じる里見を、一刀両断に断罪できる者はいるだろうか?
無理矢理にでも情状酌量の余地を探そうとしてしまうのではないか?
そのモヤモヤした気持ちこそ、本作が詳らかにする「現実の無慈悲なパラドックス」だ。
だが、「熱い男」佐藤二朗が紡ぐ物語が、そんな無情な終わり方をするわけがない。
確かに現実社会の関係性は「無慈悲なパラドックス」に満ちている。
しかし本作は、処方箋を希望に託して幕を下ろす。
花の義理の父(本間剛)のように「何もできないのに安請け合いして、いつも話をこじらせる自分」を認め、そんな自分自身と他者との関係性に折り合いをつけながら生きる。
花のように「(障がいだけでなく性格的にも)メンドクサイ自分」を認め、そんな自分自身と他者との関係性に折り合いをつけながら生きる。
そして、互いにそんな他者を認め、互いに折り合いをつけながら生きる。
そんな関係性でも、残念ながら都度「上下」ができてしまうだろう。
でも、折り合いをつけながら生きている中で「上下」は都度変更され、長期的にみれば「プラスマイナス・ゼロ」……
根に持たず、関係性を恒常化させず、自分にも他人にも鷹揚に生きていく。
そんな希望のラストシーンだった。
メモ
舞台『そのいのち』
2024年11月15日。@世田谷パブリックシアター
関係性は、生身の人間が演じ、生身の人間が観る「演劇」において、重要なファクターだ。
本作、花役は上甲にかさんと佳山明さんのダブルキャスト(東京公演は全て上甲さん)で演じるが、ともに車椅子生活を送る障がい者だ。
この影響は大きい。
俳優の芝居はただ与えられたセリフを喋り、演出家の指示どおりに演技する、というものではなく、常に他の俳優との関係性の影響下にある。
劇作家・演出家・俳優の岩松了氏は言う。
そして、「実際の障がい者が眼の前で演じる」舞台に立ち会う我々観客においても、そのリアル(「リアリティー」ではない)に圧倒される。
特に、花が語る性にまつわる話は、物語を超えて私の胸を激しく締め付けた。
同様のことは、佳山さん主演の映画『37セカンズ』(HIKARI監督、2020年)にも描かれているが、やはり、実際にそういう身体を持つ生身の人間から発せられた言葉は、圧倒的な力を持っている。
さらに言えば、障がい者とルッキズムについてもそうだ。
花の語る初恋話は、本当に切ない。
しかし、それとて単に「感動ポルノ」として消費したがっている、(健常者を自認する)私のエゴなのかもしれない……
でもそれとて、自分と他者の関係性において折り合いをつけながら生きていくしかないんじゃないか、劇場を出ながら私は(都合良すぎるかもしれないが)考えていた。